パラオ共和国
投稿者: rie2376 投稿日時: 2008/02/26 07:11 投稿番号: [154158 / 196466]
三十一年間、日本の統治下にあったパラオ
共和国、大の親日国として知られている
国旗は日の丸に真似て、丸い形になっており
日本が太陽なら我々は月、そして日本に失礼に
ならないよう、中心から少しずらしてある
そのパラオの、ペリリュー島で繰り広げられた
日米の死闘について、次のような記述がある
この戦いの凄まじさは、筆舌に尽くせないもの
でした
日本軍が仕掛けた魚雷で、米軍戦艦が爆破
されるたび、青い海はアメリカ兵の血で
真っ赤に染まったと言い伝えられています
これを見ていたアメリカ兵が、誰からともなく
この浜をオレンジ・ビーチと呼ぶようになり
現在では「オレンジ・ビーチ」は正式名称に
なっています
島民たちはこの時、日本兵とともに戦う決心を
していたそうです
しかし日本軍がこれを押しとどめ、宵闇に紛れて
住民をパラオ本島へ避難させました
ようやく戦闘が終わったペリリューへ戻った
島民たちは、恐るべき光景を目の当たりにする
ことになります
米軍の激しい絨毯爆撃により、珊瑚の島は
その形を変えていました、そしてそこに転がる
夥しい数の日本兵の遺体
島の人々はこれを見て涙を流し、この地に
日本兵の墓地を作ったのです
現在でも、この墓地は島民の手によって
いつでも綺麗に掃き清められ、訪れる日本人は
驚嘆とともに、深い感動に襲われるそうです
憲法が発布された1981年、国旗と共に
ペリリュー兵士の歌も作られました。
「ペ島の桜を讃える歌」です。
兵士を桜になぞらえるなど、とても日本的な
センスの歌詞ですが、作詞者はオキヤマ
トヨミ氏、ショージ・シゲオ氏の二人で
ともにパラオの方です
一
激しく弾雨(たま)が降り注ぎ
オレンジ浜を血で染めた
強兵(つわもの)たちはみな散って
ペ島(じま)は総て墓地(はか)となる
ニ
小さな異国のこの島を
死んでも守ると誓いつつ
山なす敵を迎え撃ち
弾(たま)射(う)ち尽くし食糧
(しょく)もない
三
将兵(ヘいし)は”桜”を叫びつつ
これが最期の伝えごと
父母よ祖国よ妻や子よ
別れの”桜"に意味深し
四
日本の”桜"は春いちど
見事に咲いて明日(あす)は散る
ペ島(じま)の”桜"は散り散りに
玉砕(ち)れども勲功(いさお)は
永久(とこしえ)に
五
今守備勇士(もののふ)の姿なく
残りし洞窟(じんち)の夢の跡
古いペ島(じま)の習慣で
我等勇士の霊魂(たま)守る
六
平和と自由の尊さを
身を鴻(こな)にしてこの島に
教えて散りし"桜花"
今では平和が甦る
七
どうぞ再びペリリューヘ
時なし桜花(さくら)の花びらは
椰子の木陰で待ち佗(わび)し
あつい涙がこみあげる
八
戦友遺族の皆さまに
永遠(いついつ)までもかわりなく
必ず我等は待ち望む
桜とともに皆さまを
ペリリュー島の戦闘は、はじめから勝ち目のない
負け戦だったでしょう、負けると知りながら
何故命を落とすのか、と考えてしまう人も
いるでしょう。
しかし彼らの死は、決して無駄ではありません
でした。戦った日本兵は今もなお、こうして
パラオの人々に慕われています
彼らはその死によって、私達とパラオを強く
強く結び付けたのです
、
島に立つ墓標は「誇りを持って生きよ」と
現代の日本人に語り掛けているように
私は感じます
また1982年には、日本とパラオの心を
結ぶ会と、日本の青年神職が集まった清流会に
よりペリリュー神社が建立され、天照大神と
ともに、ペリリュー戦死者が英霊として祀られ
ました
ここも墓地と同様、島民によって清浄に管理
され、習慣的にこの神社を訪れ、戦没者に手を
合わせる住民も多いそうです
境内にはニミッツ提督の言葉を、刻んだ詩碑も
建てられています、碑文は次のとおりです
諸国から訪れる旅人達よ
この島を守るために日本軍人が
いかに勇敢な愛国心をもって戦い
そして玉砕したかを伝えられよ
戦いの後、かつての敵を称えるニミッツ提督
この島には、憎しみを溶してしまう不思議な
力が宿っているのかも知れません
共和国、大の親日国として知られている
国旗は日の丸に真似て、丸い形になっており
日本が太陽なら我々は月、そして日本に失礼に
ならないよう、中心から少しずらしてある
そのパラオの、ペリリュー島で繰り広げられた
日米の死闘について、次のような記述がある
この戦いの凄まじさは、筆舌に尽くせないもの
でした
日本軍が仕掛けた魚雷で、米軍戦艦が爆破
されるたび、青い海はアメリカ兵の血で
真っ赤に染まったと言い伝えられています
これを見ていたアメリカ兵が、誰からともなく
この浜をオレンジ・ビーチと呼ぶようになり
現在では「オレンジ・ビーチ」は正式名称に
なっています
島民たちはこの時、日本兵とともに戦う決心を
していたそうです
しかし日本軍がこれを押しとどめ、宵闇に紛れて
住民をパラオ本島へ避難させました
ようやく戦闘が終わったペリリューへ戻った
島民たちは、恐るべき光景を目の当たりにする
ことになります
米軍の激しい絨毯爆撃により、珊瑚の島は
その形を変えていました、そしてそこに転がる
夥しい数の日本兵の遺体
島の人々はこれを見て涙を流し、この地に
日本兵の墓地を作ったのです
現在でも、この墓地は島民の手によって
いつでも綺麗に掃き清められ、訪れる日本人は
驚嘆とともに、深い感動に襲われるそうです
憲法が発布された1981年、国旗と共に
ペリリュー兵士の歌も作られました。
「ペ島の桜を讃える歌」です。
兵士を桜になぞらえるなど、とても日本的な
センスの歌詞ですが、作詞者はオキヤマ
トヨミ氏、ショージ・シゲオ氏の二人で
ともにパラオの方です
一
激しく弾雨(たま)が降り注ぎ
オレンジ浜を血で染めた
強兵(つわもの)たちはみな散って
ペ島(じま)は総て墓地(はか)となる
ニ
小さな異国のこの島を
死んでも守ると誓いつつ
山なす敵を迎え撃ち
弾(たま)射(う)ち尽くし食糧
(しょく)もない
三
将兵(ヘいし)は”桜”を叫びつつ
これが最期の伝えごと
父母よ祖国よ妻や子よ
別れの”桜"に意味深し
四
日本の”桜"は春いちど
見事に咲いて明日(あす)は散る
ペ島(じま)の”桜"は散り散りに
玉砕(ち)れども勲功(いさお)は
永久(とこしえ)に
五
今守備勇士(もののふ)の姿なく
残りし洞窟(じんち)の夢の跡
古いペ島(じま)の習慣で
我等勇士の霊魂(たま)守る
六
平和と自由の尊さを
身を鴻(こな)にしてこの島に
教えて散りし"桜花"
今では平和が甦る
七
どうぞ再びペリリューヘ
時なし桜花(さくら)の花びらは
椰子の木陰で待ち佗(わび)し
あつい涙がこみあげる
八
戦友遺族の皆さまに
永遠(いついつ)までもかわりなく
必ず我等は待ち望む
桜とともに皆さまを
ペリリュー島の戦闘は、はじめから勝ち目のない
負け戦だったでしょう、負けると知りながら
何故命を落とすのか、と考えてしまう人も
いるでしょう。
しかし彼らの死は、決して無駄ではありません
でした。戦った日本兵は今もなお、こうして
パラオの人々に慕われています
彼らはその死によって、私達とパラオを強く
強く結び付けたのです
、
島に立つ墓標は「誇りを持って生きよ」と
現代の日本人に語り掛けているように
私は感じます
また1982年には、日本とパラオの心を
結ぶ会と、日本の青年神職が集まった清流会に
よりペリリュー神社が建立され、天照大神と
ともに、ペリリュー戦死者が英霊として祀られ
ました
ここも墓地と同様、島民によって清浄に管理
され、習慣的にこの神社を訪れ、戦没者に手を
合わせる住民も多いそうです
境内にはニミッツ提督の言葉を、刻んだ詩碑も
建てられています、碑文は次のとおりです
諸国から訪れる旅人達よ
この島を守るために日本軍人が
いかに勇敢な愛国心をもって戦い
そして玉砕したかを伝えられよ
戦いの後、かつての敵を称えるニミッツ提督
この島には、憎しみを溶してしまう不思議な
力が宿っているのかも知れません
これは メッセージ 1 (messages_admin さん)への返信です.
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