Re: 中国、 黄河の異質な文化
投稿者: n_o_i_s_e_m_a_n 投稿日時: 2007/10/04 18:33 投稿番号: [146367 / 196466]
誤解してはいけないのは
「東夷伝には、扶余・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・馬韓・辰韓・弁辰・倭人の九条が含まれている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%83%BB%E5%80%AD%E4%BA%BA%E9%96%A2%E9%80%A3%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%96%87%E7%8C%AE
とあるように「倭人」とは「国の名前」です。ただ「扶余人」・「高句麗人」・・・と呼ぶなら「倭人人」ですが、おそらくその場合も「倭人」と呼ばれたようです。
しかし、「日本列島に移ったあとの倭人の国」は「倭」です。
また、黄河下流と長江下流の間に淮河が流れていますが、倭人の主分布値域は淮河流域だったようです。
私は文献で「淮河」がでてくると注目していますが、特に「淮南子」には「淮河以東の東夷」のことが多く書かれており、貴重な文献です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%AE%E5%8D%97%E5%AD%90
(ちなみに「八紘一宇」も原典はここです。)
>>大シ文;口文化は、黄河流域・山東省と江蘇省北部一帯に分布しています。
>こっちが黄河文明ですね。 黄帝側。
実はここが問題です。
黄河に居たからひとくくりに黄河文明とされていますが、それは言わばミシシッピ川流域の「ネイティブアメリカンの文化」とその地を奪った「白人文化」を「ミシシッピ文化」とくくるようなものです。
黄河文明の初期の代表的な文化は「6800年前」の「仰韶文化」です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B0%E9%9F%B6%E6%96%87%E5%8C%96
これは前期と後期で、まるで別人のように性格が変わっており、
前期は
・紀元前4800年ころ
・紅陶が主流
・代表遺跡は陝西省西安市「半坡」
・母系社会で、農村の階層化がみられるが貧富の差は少なく墓の携帯も平等。
・前4000年頃にろくろの使用が見られる
といった特徴があります。
後期は
・紀元前3500年以降
・父系社会
・貧富の差が激しく社会の分業・階層化が進んだ。
とあります。
つまり、5500年前に母系社会から父系社会に突然変わっており、チャイナでは「母系社会から父系社会に発展した」と説明されています。
また、前期の「紅陶」は「塗りも文様も素晴らしい出来栄え」ですが、後期は「いつおう似たようなデザインの紅陶」ではあるものの同じ文化と思えないぐらい美しくない「いびつなまがい物」になってしまっています。
これは「母系社会民族」の地が「父系社会民族」に取って代わられ、「紅陶」もコピーされたのだと考えています
その後、黄河下流に現れた大シ文;口文化は、仰韶文化の前期のような紅陶が主流であり、母系・父系社会を形成しています。(倭人も母系・父系社会であり、「母系の祖先と父系の祖先の両方がたどれた」ということです)
>青島(チンタオ)でしょう。
日本では「青島神社」ですね。
http://www9.ocn.ne.jp/~aosima/
青島(チンタオ)のある山東半島南岸をもう少し西(根元)にいけば、始皇帝が「琅邪臺(琅邪台)」を建てさせ、また徐福と会った琅邪(ろうや)があります。
http://inoues.net/mystery/jyofuku.html
当時、「邪」といえばすなわち「琅邪」を指していたといい、「邪馬臺」のルーツがここだと考えています。
「琅邪山」は東の海に面した岬であり、ここで神官が「東から昇る太陽を祈願した」ということですが、それが「倭人の主催者」だっただろうと考えています。
(伊勢湾に面した伊勢神宮もまさにこのロケーションですね)
>馬、鬼、虎?? 人ではないって言う発想なんでしょうね〜。
あと「土方」というのもあります。(「どかた」かあるいは「ひじかた」のルーツでしょうか?)
また、古代中国では「正月一日に鶏を産み、続いて狗、猪、羊、牛、馬と産んで、七日に人を産んだ」という「七日」伝説があります。
あるいは「人族」以前にこれらの「七族」があったのかもしれません。
女かと伏義には「東北の洪水伝説」があり「父親が雷を捕まえ、子供だった「女か」と「伏義」が逃がしてやると、やがて洪水が来て人類が滅亡することを伝え、父親は鉄箱を作り、2人は雷がくれた大きな瓢箪に隠れて洪水をやり過ごしたが洪水が収まるとまっさかさまに天から落ちて鉄箱
「東夷伝には、扶余・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・馬韓・辰韓・弁辰・倭人の九条が含まれている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%83%BB%E5%80%AD%E4%BA%BA%E9%96%A2%E9%80%A3%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%96%87%E7%8C%AE
とあるように「倭人」とは「国の名前」です。ただ「扶余人」・「高句麗人」・・・と呼ぶなら「倭人人」ですが、おそらくその場合も「倭人」と呼ばれたようです。
しかし、「日本列島に移ったあとの倭人の国」は「倭」です。
また、黄河下流と長江下流の間に淮河が流れていますが、倭人の主分布値域は淮河流域だったようです。
私は文献で「淮河」がでてくると注目していますが、特に「淮南子」には「淮河以東の東夷」のことが多く書かれており、貴重な文献です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%AE%E5%8D%97%E5%AD%90
(ちなみに「八紘一宇」も原典はここです。)
>>大シ文;口文化は、黄河流域・山東省と江蘇省北部一帯に分布しています。
>こっちが黄河文明ですね。 黄帝側。
実はここが問題です。
黄河に居たからひとくくりに黄河文明とされていますが、それは言わばミシシッピ川流域の「ネイティブアメリカンの文化」とその地を奪った「白人文化」を「ミシシッピ文化」とくくるようなものです。
黄河文明の初期の代表的な文化は「6800年前」の「仰韶文化」です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B0%E9%9F%B6%E6%96%87%E5%8C%96
これは前期と後期で、まるで別人のように性格が変わっており、
前期は
・紀元前4800年ころ
・紅陶が主流
・代表遺跡は陝西省西安市「半坡」
・母系社会で、農村の階層化がみられるが貧富の差は少なく墓の携帯も平等。
・前4000年頃にろくろの使用が見られる
といった特徴があります。
後期は
・紀元前3500年以降
・父系社会
・貧富の差が激しく社会の分業・階層化が進んだ。
とあります。
つまり、5500年前に母系社会から父系社会に突然変わっており、チャイナでは「母系社会から父系社会に発展した」と説明されています。
また、前期の「紅陶」は「塗りも文様も素晴らしい出来栄え」ですが、後期は「いつおう似たようなデザインの紅陶」ではあるものの同じ文化と思えないぐらい美しくない「いびつなまがい物」になってしまっています。
これは「母系社会民族」の地が「父系社会民族」に取って代わられ、「紅陶」もコピーされたのだと考えています
その後、黄河下流に現れた大シ文;口文化は、仰韶文化の前期のような紅陶が主流であり、母系・父系社会を形成しています。(倭人も母系・父系社会であり、「母系の祖先と父系の祖先の両方がたどれた」ということです)
>青島(チンタオ)でしょう。
日本では「青島神社」ですね。
http://www9.ocn.ne.jp/~aosima/
青島(チンタオ)のある山東半島南岸をもう少し西(根元)にいけば、始皇帝が「琅邪臺(琅邪台)」を建てさせ、また徐福と会った琅邪(ろうや)があります。
http://inoues.net/mystery/jyofuku.html
当時、「邪」といえばすなわち「琅邪」を指していたといい、「邪馬臺」のルーツがここだと考えています。
「琅邪山」は東の海に面した岬であり、ここで神官が「東から昇る太陽を祈願した」ということですが、それが「倭人の主催者」だっただろうと考えています。
(伊勢湾に面した伊勢神宮もまさにこのロケーションですね)
>馬、鬼、虎?? 人ではないって言う発想なんでしょうね〜。
あと「土方」というのもあります。(「どかた」かあるいは「ひじかた」のルーツでしょうか?)
また、古代中国では「正月一日に鶏を産み、続いて狗、猪、羊、牛、馬と産んで、七日に人を産んだ」という「七日」伝説があります。
あるいは「人族」以前にこれらの「七族」があったのかもしれません。
女かと伏義には「東北の洪水伝説」があり「父親が雷を捕まえ、子供だった「女か」と「伏義」が逃がしてやると、やがて洪水が来て人類が滅亡することを伝え、父親は鉄箱を作り、2人は雷がくれた大きな瓢箪に隠れて洪水をやり過ごしたが洪水が収まるとまっさかさまに天から落ちて鉄箱
これは メッセージ 146337 (mirokuninoti さん)への返信です.
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