宮崎駿の動画の蛍の墓について
投稿者: tokyo_made_otearai_benki 投稿日時: 2007/07/17 02:01 投稿番号: [141954 / 196466]
1945年9月21日、清太は省線三ノ宮駅構内で衰弱死した。清太の所持品は錆びたドロップ缶。その中には節子の小さな骨片が入っていた。駅員がドロップ缶を見つけ、「何やこれ?」と言って草むらに放り投げる。地面に落ちた缶から飛び出した節子の遺骨のまわりに蛍が群がり、魂とも思える光を放ち、節子が現れ駅で衰弱死している清太を見つけ、清太の所に行こうとするが
太平洋戦争末期、兵庫県御影町に住んでいた4歳の節子とその兄である14歳の清太は6月5日の空襲で母も家も失い、父の従兄弟の未亡人である西宮の親戚の家に身を寄せることになる。
やがて働きもせず遊んでばかりいる節子と清太を、血の繋がりのない小母は毛嫌いするようになる。二人の兄妹は家を出ることを決心し、夙川上流にある防空壕の中で暮らし始めるが、食料が不足し、配給も受けられないため節子は栄養失調で弱っていく。清太は、生きるために畑から野菜を盗んだり、空襲で無人の人家から物を盗んだりしてしまう。やがて日本が降伏し戦争は終わった。敗戦を知らなかった清太は、父の所属する連合艦隊も壊滅したと聞きショックを受ける。
清太は銀行から貯金を下ろして食料の調達に走るが、物資不足で滋養のある食品はなかなか手に入らない。そしてついに節子は8月22日、ひとかけらのスイカを口にしたのを最後に幸薄く短い生涯を閉じた。節子を荼毘に付した後、清太は防空壕を後にして去っていくが、彼もまた栄養失調に冒されており、身寄りもなく駅に寝起きする戦災孤児の一人として死を待つだけであった。
私はその動画の内容を観賞して滴の涙を流し出す時に、私も全ての日本国民が平和の重用性を認識する事を希望しています。
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