Re: 品質と信頼・・・馬鹿なウイルス屁。
投稿者: mirokuninoti 投稿日時: 2007/07/15 22:18 投稿番号: [141845 / 196466]
>しかし、コアたるエンジン部分、設計、操縦プログラムなど、日本は全く白痴だ。
売れるんだったら造ると思いますけんど。
今から販売網をとるのは至難の業だよ。
***
国産旅客機計画
1952年(昭和27年)に日本が連合国の占領下から再独立し、GHQ SCAPによる日本企業による飛行機の運航や製造の禁止が一部解除されて数年、日本の航空路線は、ダグラス DC-3やDC-4、コンベア440などのアメリカ合衆国製やデハビランド DH.114 へロンなどのイギリス製の航空機が占めており、日本の航空機を再び飛ばしたいというのは、多くの航空関係者の望むところであった。
1957年(昭和32年)に日本企業による飛行機の運航や製造の禁止が全面解除される事を見越し、1956年(昭和31年)に通商産業省(現・経済産業省)の主導で国産民間機計画が打ち出された。
翌年から専任理事に木村秀政日本大学教授を迎えた「財団法人 輸送機設計研究協会」(通称「輸研」)が設立されて、小型旅客輸送機の設計が始まった。
輸研には、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)や雷電、烈風を設計した新三菱の堀越二郎、中島飛行機で一式戦闘機(隼)を設計した富士重工業の太田稔、川西航空機で二式大艇や紫電改(及び紫電)を設計した新明和の菊原静男、川崎航空機で三式戦闘機(飛燕)や五式戦闘機を設計した川崎の土井武夫といった、戦前の航空業界を支えた人物が参加、設計に没頭した。
航空業界ではこれに航研機を設計した木村教授を加えて「五人のサムライ」と呼んだ。
[編集] 日航製設立
モックアップ公開後、日本政府主導で設立された日本航空機製造 (NAMC) に開発が引き継がれた。
「五人のサムライ」は実機製作には携わらないと宣言したため、1960年(昭和35年)からの実機製作は三菱から技術部長として出向してきた東條輝雄に任せられた。
東條輝雄は連合国による極東国際軍事裁判(東京裁判)において死刑判決を受け処刑された東條英機元首相(陸軍大臣なども兼任)の次男で、父の勧めで軍人ではなく技術者を目指し、かつて堀越の元で「零戦」の設計にも携わった。
中型輸送機開発を正式に決定すると、アメリカのコンベアやオランダのフォッカー、イギリスのBACなど欧米の航空機メーカーが自社との共同開発、もしくは自社機のライセンス生産への参画(つまり独自開発の計画中止)を求めて殺到した。
これらの企業はみなDC-3の後継となる機体の開発計画を持っており、競合機種が増えることを望まなかったからである。
特にフォッカーは自社のF27 フレンドシップと日本の機体の規模が競合するためにしつこく食い下がってきたが、これらを通産省はすべて一蹴した。
***
生産終了
退役特別塗装 (2006年9月30日徳島空港)YS-11の日本における最終塗装
引退間際に扉に塗装されたキャンペーンマーク
引退間近の日本エアコミューター機。
旧種子島空港にて総勢182機が生産されたが、販売網がうまく構築できないままで、予想より売上が伸びず、また第二次世界大戦後の日本では初めて作った機体のために実績がないため、足元を見られて値下げを続け、原価を割った価格で販売することもめずらしくなかった。
***
かわいそうに〜〜〜。。ここでも買い叩かれている。
***
また、宣伝費などの販売、営業関連費を初期コストの中に換算していなかったなど、原価管理も杜撰であったと言われている。
赤字は積み重なり、国会においてこのことを追及されると、1971年(昭和46年)12月28日の国会で政府(佐藤栄作内閣)はYS-11生産中止と日航製の解散を決定、1972年(昭和47年)末に販売を終了した。
この時点でYSの民需は145機、競合機ホーカーシドレーは118機で、YS-11はフレンドシップに次ぐ売り上げであった。
YSは昭和47年度末(1973年3月)を以って生産終了となったが、欧米の競合機は生産が続いた。
技術を伝える後継機計画が進まないまま、1982年(昭和57年)9月に日本航空機製造は解散した。その後のアフターサービスは三菱重工業が請け負っている。
現在でもこの決定は批判が多く、日本から新たな国産飛行機が生まれない一番の要因であると言われている
***
佐藤さんの過ちかもしれませんね。国策の過ちだ。
戦前技術の継承を〜〜〜〜。
自動車を選んだという事か??
売れるんだったら造ると思いますけんど。
今から販売網をとるのは至難の業だよ。
***
国産旅客機計画
1952年(昭和27年)に日本が連合国の占領下から再独立し、GHQ SCAPによる日本企業による飛行機の運航や製造の禁止が一部解除されて数年、日本の航空路線は、ダグラス DC-3やDC-4、コンベア440などのアメリカ合衆国製やデハビランド DH.114 へロンなどのイギリス製の航空機が占めており、日本の航空機を再び飛ばしたいというのは、多くの航空関係者の望むところであった。
1957年(昭和32年)に日本企業による飛行機の運航や製造の禁止が全面解除される事を見越し、1956年(昭和31年)に通商産業省(現・経済産業省)の主導で国産民間機計画が打ち出された。
翌年から専任理事に木村秀政日本大学教授を迎えた「財団法人 輸送機設計研究協会」(通称「輸研」)が設立されて、小型旅客輸送機の設計が始まった。
輸研には、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)や雷電、烈風を設計した新三菱の堀越二郎、中島飛行機で一式戦闘機(隼)を設計した富士重工業の太田稔、川西航空機で二式大艇や紫電改(及び紫電)を設計した新明和の菊原静男、川崎航空機で三式戦闘機(飛燕)や五式戦闘機を設計した川崎の土井武夫といった、戦前の航空業界を支えた人物が参加、設計に没頭した。
航空業界ではこれに航研機を設計した木村教授を加えて「五人のサムライ」と呼んだ。
[編集] 日航製設立
モックアップ公開後、日本政府主導で設立された日本航空機製造 (NAMC) に開発が引き継がれた。
「五人のサムライ」は実機製作には携わらないと宣言したため、1960年(昭和35年)からの実機製作は三菱から技術部長として出向してきた東條輝雄に任せられた。
東條輝雄は連合国による極東国際軍事裁判(東京裁判)において死刑判決を受け処刑された東條英機元首相(陸軍大臣なども兼任)の次男で、父の勧めで軍人ではなく技術者を目指し、かつて堀越の元で「零戦」の設計にも携わった。
中型輸送機開発を正式に決定すると、アメリカのコンベアやオランダのフォッカー、イギリスのBACなど欧米の航空機メーカーが自社との共同開発、もしくは自社機のライセンス生産への参画(つまり独自開発の計画中止)を求めて殺到した。
これらの企業はみなDC-3の後継となる機体の開発計画を持っており、競合機種が増えることを望まなかったからである。
特にフォッカーは自社のF27 フレンドシップと日本の機体の規模が競合するためにしつこく食い下がってきたが、これらを通産省はすべて一蹴した。
***
生産終了
退役特別塗装 (2006年9月30日徳島空港)YS-11の日本における最終塗装
引退間際に扉に塗装されたキャンペーンマーク
引退間近の日本エアコミューター機。
旧種子島空港にて総勢182機が生産されたが、販売網がうまく構築できないままで、予想より売上が伸びず、また第二次世界大戦後の日本では初めて作った機体のために実績がないため、足元を見られて値下げを続け、原価を割った価格で販売することもめずらしくなかった。
***
かわいそうに〜〜〜。。ここでも買い叩かれている。
***
また、宣伝費などの販売、営業関連費を初期コストの中に換算していなかったなど、原価管理も杜撰であったと言われている。
赤字は積み重なり、国会においてこのことを追及されると、1971年(昭和46年)12月28日の国会で政府(佐藤栄作内閣)はYS-11生産中止と日航製の解散を決定、1972年(昭和47年)末に販売を終了した。
この時点でYSの民需は145機、競合機ホーカーシドレーは118機で、YS-11はフレンドシップに次ぐ売り上げであった。
YSは昭和47年度末(1973年3月)を以って生産終了となったが、欧米の競合機は生産が続いた。
技術を伝える後継機計画が進まないまま、1982年(昭和57年)9月に日本航空機製造は解散した。その後のアフターサービスは三菱重工業が請け負っている。
現在でもこの決定は批判が多く、日本から新たな国産飛行機が生まれない一番の要因であると言われている
***
佐藤さんの過ちかもしれませんね。国策の過ちだ。
戦前技術の継承を〜〜〜〜。
自動車を選んだという事か??
これは メッセージ 141684 (sintyou5 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/ffccf4x78_1/141845.html