日本人の精神面について
投稿者: tokyo_made_otearai_benki 投稿日時: 2007/06/18 11:02 投稿番号: [139286 / 196466]
日本人が戦後、一貫してやってきたことは、経済成長と豊かさの追求であり、精神面においては旧俗を脱することであった。民族や国籍に「束縛」された精神を「自由」にすること。日本人の旧来からの道徳や倫理といった固有の「特殊的」価値を捨てること、であった。その作業も半世紀を経た。その結果、豊かで無軌道な社会が出現した。自分で死ぬのも他人を殺すのも「自由」な社会が到来した。
実は、精神とは常に不合理なものに「束縛」されているものだ。その束縛には、ある道徳性や倫理性が多く含まれている。むろん、蒙昧も含まれてはいるが。「自由」なアメリカ人すら「束縛」されている、キリスト教文化によって。彼らの普遍主義、自由主義は何の底板も持たぬものではない。それはキリスト教文化という頑強な地盤に支えられているものなのだ。彼らの神秘主義もキリスト教文化の枠内にあるものである。
確かに文明は、不合理なものによる「束縛」から精神を「自由」にする。しかし同時に、人間はその「束縛」の中に含まれた、ある道徳性や倫理性からも「自由」になってしまうようだ。こうなると文明とは何かと問いただしたくなるが、事実である。
相対的な問題ではあるが、未開の人間観は性善説であり、文明の人間観は性悪説となる。たとえば、アイヌ対江戸幕府、アメリカ・インディアン対アメリカ合衆国の歴史がこのことを証明している。前者は後者の「うそ」を信じてだまされた。後者は自らの文明の流儀に従ったまでだろう。ただ、前者がそれを理解できないということを十分に承知しながらそうしたことが、悪意だ。
これは国レベルだけではなく、個人レベルでも真だ。「未開」の善人が「まさかそんなこと」と思うようなことが、「文明」の悪人にとっては「当たり前のこと」となる。
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