和人に虐殺され差別された北海道のアイヌ族
投稿者: tokyo_made_otearai_benki 投稿日時: 2007/05/29 01:00 投稿番号: [137855 / 196466]
13世紀ぐらいまでは、北海道(夷島)は流刑地扱いされていたようだ。15世紀になると、奥羽地方北部の諸豪族が津軽海峡を渡って北海道に移り住むようになる。和人豪族とその家来、商人らは北海道南部の松前や函館に「道南十二館」と呼ばれる12の砦を築く。
移住してきた和人は、先住民アイヌに鮭、昆布、熊や鹿の毛皮などを獲らせ、それを本州に運んで利益を上げていた。しかし和人はアイヌを「愚直の者」などと呼び見下し、アイヌを脅したり、だましたりして搾取するようになったため、和人とアイヌの間でしばしば抗争が起きるようになった。
1456年には、アイヌの若者が和人に殺害されたことをきっかけに、積もり積もったアイヌの怒りが爆発。翌57年、指導者コシャマインに率いられたアイヌ軍は、「道南十二館」のうち十館を陥落させることに成功した。だが、コシャマインとその息子はだまし討ちに会い、射殺される。その後も和人は、アイヌ側が優勢になると、和議の酒宴を開いては、その場で酔ったアイヌたちを討つなどという卑怯な策略を駆使して、支配権を確立していった。
豊臣秀吉から蝦夷地全島(北海道)の支配権を認可された松前の和人豪族蠣崎慶広は、天下を取った家康にもうまく取り入った。姓を松前に改めて松前藩とし、1604年に家康から「蝦夷地に出入りする商人その他の者は松前藩の許可が必要であり、これを破る者は松前藩の手で処刑してもよい」というお墨付きを得る。
松前藩は道南を「和人地」に指定、アイヌを辺境の「蝦夷地」へ封じ込めた。だが、和人たちはその蝦夷地をも侵食しはじめる。初めは友好を装っていた和人は、アイヌに対し極端に不平等な産物交換を強要するようになる。アイヌ側が強制された数量の物産を納入できないと、罰としてさらに不当な交換を強いて、それも達成できないとアイヌの子供を質に取ったりもしたという。
こうした不当な搾取と圧制に、アイヌは再び怒りを爆発させる。1669年、日高のシペチャリ川(現在の静内川)に城砦を構えたアイヌの統領シャクシャインは、東西のアイヌ二〇〇〇余人とともに一斉蜂起。和人の交易船などを襲いながら、道南へと攻め入った。アイヌの弓に対し松前藩は鉄砲で応戦。攻勢に転じたのを機にアイヌに和議をもちかけ、酒宴を開いた。その酒宴の夜、酔ったシャクシャインは斬られ、アイヌは敗北する。
この結果、松前藩によるアイヌへの搾取と圧制は一段と厳しくなる。アイヌは絶対服従を強いられ、事実上の「奴隷」として使われるようになる。アイヌから収奪されたイリコ(ホシナマコ)などの産品は、中国への貴重な交易品となった。
18世紀半ばになると、帝政ロシアが千島列島に進出。通商を求めて根室地方にやって来た。北方からの脅威を感じた幕府は、蝦夷地調査隊を派遣。その調査結果をもとに、幕府内では全国の「穢多(エタ)」7万人を移住させ、北海道を開拓すべきだとする計画が立案されたが、推進派の老中・田沼意次の失脚もあり、計画そのものが消滅した。
18世紀後半、和人の圧制に対するアイヌ民族による最後の組織的蜂起が起きる。その背景には、国後島や根室地方など北海道東部の交易権や漁業権を松前藩から手に入れた商人・飛騨屋による、先住民アイヌに対する暴虐・非道があった。飛騨屋の現場監督は、アイヌ女性を犯したり、命令に従わないアイヌは打ち殺したりした。
1789年、妻を和人に殺されたマメキリを頭にして国後(クナシリ)のアイヌが蜂起、同様に過酷な労働を強制されていたメナシ(アイヌ語で東方の意)アイヌもこれに加わり、交易所や交易船を次々と襲撃、和人71人を殺害した。これに対し松前藩は、総勢260余人の鎮圧隊を派遣、アイヌ軍と対峙した。
事態を収拾するため、国後アイヌの長老ツキノエらがほう起したアイヌに武器を置くよう説得し、交渉による穏便な解決をめざした。ところが松前軍は和人を殺害に加担した38人を特定させ、逃亡した一人を除く37人を見せしめのため処刑、斬首した。このときさらに多くのアイヌが虐殺されたとの説もある。
これがクナシリ・メナシの戦いと呼ばれるアイヌ最後の抵抗であった。これ以後、アイヌは徹底的に管理・弾圧され、山歩きに必要な山刀(タシロ)も取り上げられたという。
当時のアイヌに対する差別と虐待の有様は、旅行家松浦武四郎の『近世蝦夷人物誌』などに詳しく書かれている。
移住してきた和人は、先住民アイヌに鮭、昆布、熊や鹿の毛皮などを獲らせ、それを本州に運んで利益を上げていた。しかし和人はアイヌを「愚直の者」などと呼び見下し、アイヌを脅したり、だましたりして搾取するようになったため、和人とアイヌの間でしばしば抗争が起きるようになった。
1456年には、アイヌの若者が和人に殺害されたことをきっかけに、積もり積もったアイヌの怒りが爆発。翌57年、指導者コシャマインに率いられたアイヌ軍は、「道南十二館」のうち十館を陥落させることに成功した。だが、コシャマインとその息子はだまし討ちに会い、射殺される。その後も和人は、アイヌ側が優勢になると、和議の酒宴を開いては、その場で酔ったアイヌたちを討つなどという卑怯な策略を駆使して、支配権を確立していった。
豊臣秀吉から蝦夷地全島(北海道)の支配権を認可された松前の和人豪族蠣崎慶広は、天下を取った家康にもうまく取り入った。姓を松前に改めて松前藩とし、1604年に家康から「蝦夷地に出入りする商人その他の者は松前藩の許可が必要であり、これを破る者は松前藩の手で処刑してもよい」というお墨付きを得る。
松前藩は道南を「和人地」に指定、アイヌを辺境の「蝦夷地」へ封じ込めた。だが、和人たちはその蝦夷地をも侵食しはじめる。初めは友好を装っていた和人は、アイヌに対し極端に不平等な産物交換を強要するようになる。アイヌ側が強制された数量の物産を納入できないと、罰としてさらに不当な交換を強いて、それも達成できないとアイヌの子供を質に取ったりもしたという。
こうした不当な搾取と圧制に、アイヌは再び怒りを爆発させる。1669年、日高のシペチャリ川(現在の静内川)に城砦を構えたアイヌの統領シャクシャインは、東西のアイヌ二〇〇〇余人とともに一斉蜂起。和人の交易船などを襲いながら、道南へと攻め入った。アイヌの弓に対し松前藩は鉄砲で応戦。攻勢に転じたのを機にアイヌに和議をもちかけ、酒宴を開いた。その酒宴の夜、酔ったシャクシャインは斬られ、アイヌは敗北する。
この結果、松前藩によるアイヌへの搾取と圧制は一段と厳しくなる。アイヌは絶対服従を強いられ、事実上の「奴隷」として使われるようになる。アイヌから収奪されたイリコ(ホシナマコ)などの産品は、中国への貴重な交易品となった。
18世紀半ばになると、帝政ロシアが千島列島に進出。通商を求めて根室地方にやって来た。北方からの脅威を感じた幕府は、蝦夷地調査隊を派遣。その調査結果をもとに、幕府内では全国の「穢多(エタ)」7万人を移住させ、北海道を開拓すべきだとする計画が立案されたが、推進派の老中・田沼意次の失脚もあり、計画そのものが消滅した。
18世紀後半、和人の圧制に対するアイヌ民族による最後の組織的蜂起が起きる。その背景には、国後島や根室地方など北海道東部の交易権や漁業権を松前藩から手に入れた商人・飛騨屋による、先住民アイヌに対する暴虐・非道があった。飛騨屋の現場監督は、アイヌ女性を犯したり、命令に従わないアイヌは打ち殺したりした。
1789年、妻を和人に殺されたマメキリを頭にして国後(クナシリ)のアイヌが蜂起、同様に過酷な労働を強制されていたメナシ(アイヌ語で東方の意)アイヌもこれに加わり、交易所や交易船を次々と襲撃、和人71人を殺害した。これに対し松前藩は、総勢260余人の鎮圧隊を派遣、アイヌ軍と対峙した。
事態を収拾するため、国後アイヌの長老ツキノエらがほう起したアイヌに武器を置くよう説得し、交渉による穏便な解決をめざした。ところが松前軍は和人を殺害に加担した38人を特定させ、逃亡した一人を除く37人を見せしめのため処刑、斬首した。このときさらに多くのアイヌが虐殺されたとの説もある。
これがクナシリ・メナシの戦いと呼ばれるアイヌ最後の抵抗であった。これ以後、アイヌは徹底的に管理・弾圧され、山歩きに必要な山刀(タシロ)も取り上げられたという。
当時のアイヌに対する差別と虐待の有様は、旅行家松浦武四郎の『近世蝦夷人物誌』などに詳しく書かれている。
これは メッセージ 137846 (hoppeoni さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/ffccf4x78_1/137855.html