限定的分祀論
投稿者: palmereldritch608 投稿日時: 2007/05/09 19:41 投稿番号: [136561 / 196466]
靖国神社を巡る、東京裁判上のA級戦犯合祀、分祀をめぐる議論が喧しいが、結論から言えば、取り敢えずは分祀するしかない。
我々は戦いに敗れ、今なお敗戦国の地位を脱却していないのであり、その将を弔う資格はないのだ。
じつは私自身は東条英機には比較的好意的だ。彼を帝国陸軍のトップと思い込んでいる人間は多いが、実際には彼は文官に過ぎず、当時の陸軍の慣例として、武官にはまったく頭が上がらない人物であったことは少なくとも認識はされるべきだ。また、東京裁判において、彼が一貫して無罪を主張し続けた経緯も、遺書を読む限り、彼は自らの無罪ではなく、日本の無罪(少なくとも東京裁判を執行したアメリカに対しては)を主張し続けたのだと理解はしている。
対アメリカや、また当時の世界状況から言うなら、彼が、ルーズベルトに比べ、ましてやスターリンやヒトラーに比べて罪があったとは到底いえまい。
もちろん、ルーズベルトの政治的魂胆を見抜けなかった無能の非はあるとはいえ、彼を非難している多くの分祀論者もまた、靖国をめぐる支那政府の非難が、すこぶる政治的魂胆に富んだものであることをいささかも見抜いておらず、先に、東条という歴史的経験を持ちながら、なお同じ轍を踏んでいるのだから、東条以上に愚昧きわまる連中であると言わざるを得ない。とうぜん彼を無能と非難できる筋合いでは到底あるまい。
しかし、それでも彼は取り敢えずは分祀されるしかない、と私は思う。それが負けた国の身の施しというものだ。
そもそも、東条はこんな形で合祀されてそんなにも満足だろうか?と私は思う。合祀されたところで、彼の名誉は少しも回復されていない。これは東条に限らず、靖国に祀られている大東亜戦争すべての戦死者についていえる事だ。もし、先の戦争が、一部の分祀論者の言うがごとく、悪鬼の所業とでも言うようなものであるなら、彼らは単なる歴史の被害者か、あるいは悪鬼の走狗でしかなかったことになる。兵士にとってこれほど不名誉なことは他にあるまい。
もし、彼らの名誉が回復されるとしたら、先の戦争が、日本にも非はあったとはいえ、当時の国際常識に鑑みれば、基本的には自衛戦争であり、義戦という側面が確かにあったのだという認識を、我々国民が共有すること抜きにはありえないはずだ。
彼らを本当に祀るというのであれば、我々は、彼らのなしえた戦いの継続を決意しなければならない。大東亜戦争をもう一度やれ、と言っているのではない。国を守るために戦った、彼らの意思を我々もまた共有しなければならない、と言っているのだ。そして、次にやるときは必ずや勝利し、彼らの汚辱を雪ぎ無念を晴らす、との意思を我々は静かに、しかし屈強に持ち続けなければならないはずだ。
東条に祀られる資格があるか否かではない。問題は、我々に彼らを祀る資格があるか否かであり、その資格を我々が再び得る日までの自戒として、無念を呑みながらも分祀する以外、我々に方途はない様に私には思える。
我々は戦いに敗れ、今なお敗戦国の地位を脱却していないのであり、その将を弔う資格はないのだ。
じつは私自身は東条英機には比較的好意的だ。彼を帝国陸軍のトップと思い込んでいる人間は多いが、実際には彼は文官に過ぎず、当時の陸軍の慣例として、武官にはまったく頭が上がらない人物であったことは少なくとも認識はされるべきだ。また、東京裁判において、彼が一貫して無罪を主張し続けた経緯も、遺書を読む限り、彼は自らの無罪ではなく、日本の無罪(少なくとも東京裁判を執行したアメリカに対しては)を主張し続けたのだと理解はしている。
対アメリカや、また当時の世界状況から言うなら、彼が、ルーズベルトに比べ、ましてやスターリンやヒトラーに比べて罪があったとは到底いえまい。
もちろん、ルーズベルトの政治的魂胆を見抜けなかった無能の非はあるとはいえ、彼を非難している多くの分祀論者もまた、靖国をめぐる支那政府の非難が、すこぶる政治的魂胆に富んだものであることをいささかも見抜いておらず、先に、東条という歴史的経験を持ちながら、なお同じ轍を踏んでいるのだから、東条以上に愚昧きわまる連中であると言わざるを得ない。とうぜん彼を無能と非難できる筋合いでは到底あるまい。
しかし、それでも彼は取り敢えずは分祀されるしかない、と私は思う。それが負けた国の身の施しというものだ。
そもそも、東条はこんな形で合祀されてそんなにも満足だろうか?と私は思う。合祀されたところで、彼の名誉は少しも回復されていない。これは東条に限らず、靖国に祀られている大東亜戦争すべての戦死者についていえる事だ。もし、先の戦争が、一部の分祀論者の言うがごとく、悪鬼の所業とでも言うようなものであるなら、彼らは単なる歴史の被害者か、あるいは悪鬼の走狗でしかなかったことになる。兵士にとってこれほど不名誉なことは他にあるまい。
もし、彼らの名誉が回復されるとしたら、先の戦争が、日本にも非はあったとはいえ、当時の国際常識に鑑みれば、基本的には自衛戦争であり、義戦という側面が確かにあったのだという認識を、我々国民が共有すること抜きにはありえないはずだ。
彼らを本当に祀るというのであれば、我々は、彼らのなしえた戦いの継続を決意しなければならない。大東亜戦争をもう一度やれ、と言っているのではない。国を守るために戦った、彼らの意思を我々もまた共有しなければならない、と言っているのだ。そして、次にやるときは必ずや勝利し、彼らの汚辱を雪ぎ無念を晴らす、との意思を我々は静かに、しかし屈強に持ち続けなければならないはずだ。
東条に祀られる資格があるか否かではない。問題は、我々に彼らを祀る資格があるか否かであり、その資格を我々が再び得る日までの自戒として、無念を呑みながらも分祀する以外、我々に方途はない様に私には思える。
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