歴史を反省するとは?
投稿者: palmereldritch608 投稿日時: 2007/04/28 20:05 投稿番号: [135904 / 196466]
誰の言かは忘れたが、私の好きな言葉に、「すべての人間的問題は私の問題である」というのがある。マルクスやドストエフスキーの座右銘として有名なこの言葉だが、もちろんボランティアの勧めなどではない。
たとえ、どんなに奇異に見えたり、愚かに見える人の行動にも、もし本人に成り代わるならば、自分をして同じ行動に導き強いるだけの抜き差しならぬ理由があり、その限りにおいて人間の行動は理解されなければならない、という意味だろう。マルメラドフやドミトリーの、余人には理解しがたいような愚かしい言動に、やむにやまれぬ人の業を見るドストエフスキーや、すべての富は窃盗であり資本家は盗人である、などというプルードン式の俗流社会主義を排し、富を産む剰余価値が、いささかも社会倫理に抵触することなく、正当な等価交換の結果として生みだされてしまう社会構造そのものを問題にしたマルクスにとって、それらの問題はまさしく自分の問題だったのだ。
また、セーレン・キルケゴールはその著書「不安の概念」でこの様に言っている。
「我々は同情を持つべきだ、しかし同情とは、一人の人におこったことが万人におこりかねないものであることを、本当に心の底から我々が認めた場合にのみ真実なのである。そのとき始めて人は自己自身に対しても他人に対しても益あるものとなりうるのだ。」
やはりここでも、すべての人間的問題は私の問題なのである。
さて、戦争責任問題だが、日本人の中にも、先の大東亜戦争の責任を追及する声は多い。彼らは総じて”歴史を直視しろ“と言う。また、”歴史を反省しろ“とも言う。しかし、そう言っている彼ら自身が本当に歴史を直視し反省しているかは、甚だ疑わしい限りだ。
戦争責任と言うからには、責任者の歴史的行為を直視し反省しろ、と言いたいのだろうが、もしほんとうにそれを直視し、反省するというのであるなら、一連の歴史的行為をなした、かの責任者が抱え込んでいた問題をも「自分の問題」としていなければならないはずだからだ。もちろん、彼らはそんな事は絶対にしない。
あの戦争を「無謀な戦争」と呼ぶことを彼らは習わしとしている。無謀な行為をする人間はもちろんバカであろう。それなら、先の戦争は“バカの問題”であって、バカではない(つもりの)彼らとは無関係な問題ということになる。
もし、先の戦争を自分の問題だとしているのなら、それが欧米諸国の圧力に対する抵抗の一形態であったという事実は、どうしたって度外視できない問題のはずであり、また日米戦が明らかにアメリカによって惹起されたものであった事実も、忘れることなど決して出来ないはずである。
もっと言うなら、当時の軍首脳はもちろん日米の物量の格差はよく知っており、決して無知であったわけではない。しかし、当時の日本の連合艦隊とアメリカの太平洋艦隊の戦力差は歴然であり、また、帝国陸軍は錬度と士気に関して言うなら、間違いなく世界最強の陸軍であった。装備が同じなら米海兵隊にでも勝てた、と実際に戦った米軍中将が語っているくらいだ。順当であれば確かに「四年」は戦えたはずなのだ。それが何故あのような惨めな「四年」となったのか?もし、歴史を直視し反省するというのなら、この様な戦術的失敗を生んでしまった原因にまで言及されていなければならないはずだ。
果たしてかかる問題を彼らが真摯に言及したことが一度でもあったのだろうか?私は知らない。先のキルケゴールの言葉に従うなら、彼らの言葉は「自己自身に対しても他人に対しても」なんら益するものでは決してあるまい。もちろん彼らはバカである。しかし、我々はこの様な著しく自省を欠いた奇形的なバカを構造的に生み出してしまうこの日本の社会を、やはり「自分の問題」として考えなければならないのだ。それこそが、我々をして彼らのようなバカの一員に加えられぬ為の唯一の方法に違いない。
たとえ、どんなに奇異に見えたり、愚かに見える人の行動にも、もし本人に成り代わるならば、自分をして同じ行動に導き強いるだけの抜き差しならぬ理由があり、その限りにおいて人間の行動は理解されなければならない、という意味だろう。マルメラドフやドミトリーの、余人には理解しがたいような愚かしい言動に、やむにやまれぬ人の業を見るドストエフスキーや、すべての富は窃盗であり資本家は盗人である、などというプルードン式の俗流社会主義を排し、富を産む剰余価値が、いささかも社会倫理に抵触することなく、正当な等価交換の結果として生みだされてしまう社会構造そのものを問題にしたマルクスにとって、それらの問題はまさしく自分の問題だったのだ。
また、セーレン・キルケゴールはその著書「不安の概念」でこの様に言っている。
「我々は同情を持つべきだ、しかし同情とは、一人の人におこったことが万人におこりかねないものであることを、本当に心の底から我々が認めた場合にのみ真実なのである。そのとき始めて人は自己自身に対しても他人に対しても益あるものとなりうるのだ。」
やはりここでも、すべての人間的問題は私の問題なのである。
さて、戦争責任問題だが、日本人の中にも、先の大東亜戦争の責任を追及する声は多い。彼らは総じて”歴史を直視しろ“と言う。また、”歴史を反省しろ“とも言う。しかし、そう言っている彼ら自身が本当に歴史を直視し反省しているかは、甚だ疑わしい限りだ。
戦争責任と言うからには、責任者の歴史的行為を直視し反省しろ、と言いたいのだろうが、もしほんとうにそれを直視し、反省するというのであるなら、一連の歴史的行為をなした、かの責任者が抱え込んでいた問題をも「自分の問題」としていなければならないはずだからだ。もちろん、彼らはそんな事は絶対にしない。
あの戦争を「無謀な戦争」と呼ぶことを彼らは習わしとしている。無謀な行為をする人間はもちろんバカであろう。それなら、先の戦争は“バカの問題”であって、バカではない(つもりの)彼らとは無関係な問題ということになる。
もし、先の戦争を自分の問題だとしているのなら、それが欧米諸国の圧力に対する抵抗の一形態であったという事実は、どうしたって度外視できない問題のはずであり、また日米戦が明らかにアメリカによって惹起されたものであった事実も、忘れることなど決して出来ないはずである。
もっと言うなら、当時の軍首脳はもちろん日米の物量の格差はよく知っており、決して無知であったわけではない。しかし、当時の日本の連合艦隊とアメリカの太平洋艦隊の戦力差は歴然であり、また、帝国陸軍は錬度と士気に関して言うなら、間違いなく世界最強の陸軍であった。装備が同じなら米海兵隊にでも勝てた、と実際に戦った米軍中将が語っているくらいだ。順当であれば確かに「四年」は戦えたはずなのだ。それが何故あのような惨めな「四年」となったのか?もし、歴史を直視し反省するというのなら、この様な戦術的失敗を生んでしまった原因にまで言及されていなければならないはずだ。
果たしてかかる問題を彼らが真摯に言及したことが一度でもあったのだろうか?私は知らない。先のキルケゴールの言葉に従うなら、彼らの言葉は「自己自身に対しても他人に対しても」なんら益するものでは決してあるまい。もちろん彼らはバカである。しかし、我々はこの様な著しく自省を欠いた奇形的なバカを構造的に生み出してしまうこの日本の社会を、やはり「自分の問題」として考えなければならないのだ。それこそが、我々をして彼らのようなバカの一員に加えられぬ為の唯一の方法に違いない。
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