Re: 台湾からの義援金に感謝します
投稿者: sada_goro 投稿日時: 2007/03/27 23:56 投稿番号: [134268 / 196466]
台湾は先の中越地震の時も見舞金を送ってくれました
==== =2004.10.30
台湾の外交部(外務省)は30日までに、新潟県中越地震への見舞金として同県あてに200万円を送った。
さらに8万ドル(約840万円)を追加送金するという。
(中略)
同基金会の呉樹民会長は「日本は99年の台湾中部大地震の際、3億円以上の見舞金を寄付してくれた。
台湾は(新潟県の被災地を)助ける義務がある」と述べた。
==== =
日本と台湾の地震災害についての思いやりは昔からのことで,昭和10年にも大きな地震が台湾で起こりました
◆「4月21日午前6時2分、台中・新竹州を烈震が襲い、大きな被害をもたらした。
震源地は大安渓の中流大湖郡卓蘭庄附近で震源の深さは約10キロである。
被災者数35万人、死亡者3279人、全壊家屋17927戸、被害総額27,717,000円。
有史以来の災害に懸命の救助活動が続けられた」
このとき天皇陛下が侍従を台湾に遣わして一軒一軒見舞っておられます
そのときの話
==== =
皇室への思い
当時八歳だった私は、多くの家屋が倒壊し、行き場を失った被災者が恐怖にうち震える姿をおぼろげながらも覚えている。
この惨禍の最中、たいへんなことがおこった。
昭和天皇が侍従をお遣わしになったのである。その方こそ後の入江相政侍従長だった。入江侍従は、被災地の民家を一軒ずつ回られ、その被災度によって昭和天皇からのお見舞い金を下賜されたのだった。
私の母は軽傷だったので一円を頂戴した。さらに、実家は数軒の借家を持っており、全壊のものは十円、半壊だと五円が下賜された。けれども父は、被害に遭った借家の住人達にそのお見舞金をそのまま与えることにしたのだ。このときまだ少年だった私にも昭和天皇の国民への愛情が伝わり、曰本の皇室に対する親近感が心の中に芽生えていったことをよく覚えている。
いまでこそ「天皇陛下」というようになったが、数年前までは、おことわりした上で今上陛下を「明仁さん」と呼んでいた。それは今上陛下がお生まれになったとき、喉が張り裂けんばかりに唄を歌って提灯行列した思い出があり、親近感もひとしおだったからである。
いまでも年配者の多くが日本の皇室に親近感をいだいており、台湾人が作った俳句の中には「平成の美智子皇后お夏痩せ」というものまである。このことは、前章で紹介した司馬先生の手紙の中でもふれられている。
また、皇后様が日本のマスコミのバッシングにさらされたときなどは、私の家内や友人がテレビを見て、「おかわいそうだ。おかわいそうだ」と会合の度に語り合っていたものだ。こうしたことは私の家庭だけではなく、台湾の年配者が日本の皇室に対していだく素直な心情なのである。
ところが他のアジアの植民地、例えばマレーシア、ビルマ、インドネシアなどの人々が、旧宗主国元首のエリザベス女王やオランダ王室にいまでも親近感をいだき続けているなどという話は聞いたことがない。この側面もまた、日本の台湾統治がいかなるものであったかを知る手がかりとなろう。
私の父などは、この震災時に母の軽傷に対して下賜されたお見舞い金の一円札を丸い額に入れ、昭和二十年まで自宅の正庁(日本でいう仏壇)の壁にずっと掛けていた。もったいなくて使えない、両親にはそんな思いがあったにちがいない。もちろん、だからといって誰に褒められるわけでもない。また誰かに褒められたいからそうしたわけでもない。両親は、自然に、ごく自然に一円札を壁に掛けて昭和天皇の愛情に感謝していたのだろう。
==== =(「台湾人と日本精神」より)
(つづく)
==== =2004.10.30
台湾の外交部(外務省)は30日までに、新潟県中越地震への見舞金として同県あてに200万円を送った。
さらに8万ドル(約840万円)を追加送金するという。
(中略)
同基金会の呉樹民会長は「日本は99年の台湾中部大地震の際、3億円以上の見舞金を寄付してくれた。
台湾は(新潟県の被災地を)助ける義務がある」と述べた。
==== =
日本と台湾の地震災害についての思いやりは昔からのことで,昭和10年にも大きな地震が台湾で起こりました
◆「4月21日午前6時2分、台中・新竹州を烈震が襲い、大きな被害をもたらした。
震源地は大安渓の中流大湖郡卓蘭庄附近で震源の深さは約10キロである。
被災者数35万人、死亡者3279人、全壊家屋17927戸、被害総額27,717,000円。
有史以来の災害に懸命の救助活動が続けられた」
このとき天皇陛下が侍従を台湾に遣わして一軒一軒見舞っておられます
そのときの話
==== =
皇室への思い
当時八歳だった私は、多くの家屋が倒壊し、行き場を失った被災者が恐怖にうち震える姿をおぼろげながらも覚えている。
この惨禍の最中、たいへんなことがおこった。
昭和天皇が侍従をお遣わしになったのである。その方こそ後の入江相政侍従長だった。入江侍従は、被災地の民家を一軒ずつ回られ、その被災度によって昭和天皇からのお見舞い金を下賜されたのだった。
私の母は軽傷だったので一円を頂戴した。さらに、実家は数軒の借家を持っており、全壊のものは十円、半壊だと五円が下賜された。けれども父は、被害に遭った借家の住人達にそのお見舞金をそのまま与えることにしたのだ。このときまだ少年だった私にも昭和天皇の国民への愛情が伝わり、曰本の皇室に対する親近感が心の中に芽生えていったことをよく覚えている。
いまでこそ「天皇陛下」というようになったが、数年前までは、おことわりした上で今上陛下を「明仁さん」と呼んでいた。それは今上陛下がお生まれになったとき、喉が張り裂けんばかりに唄を歌って提灯行列した思い出があり、親近感もひとしおだったからである。
いまでも年配者の多くが日本の皇室に親近感をいだいており、台湾人が作った俳句の中には「平成の美智子皇后お夏痩せ」というものまである。このことは、前章で紹介した司馬先生の手紙の中でもふれられている。
また、皇后様が日本のマスコミのバッシングにさらされたときなどは、私の家内や友人がテレビを見て、「おかわいそうだ。おかわいそうだ」と会合の度に語り合っていたものだ。こうしたことは私の家庭だけではなく、台湾の年配者が日本の皇室に対していだく素直な心情なのである。
ところが他のアジアの植民地、例えばマレーシア、ビルマ、インドネシアなどの人々が、旧宗主国元首のエリザベス女王やオランダ王室にいまでも親近感をいだき続けているなどという話は聞いたことがない。この側面もまた、日本の台湾統治がいかなるものであったかを知る手がかりとなろう。
私の父などは、この震災時に母の軽傷に対して下賜されたお見舞い金の一円札を丸い額に入れ、昭和二十年まで自宅の正庁(日本でいう仏壇)の壁にずっと掛けていた。もったいなくて使えない、両親にはそんな思いがあったにちがいない。もちろん、だからといって誰に褒められるわけでもない。また誰かに褒められたいからそうしたわけでもない。両親は、自然に、ごく自然に一円札を壁に掛けて昭和天皇の愛情に感謝していたのだろう。
==== =(「台湾人と日本精神」より)
(つづく)
これは メッセージ 134265 (fumittiposupemomo さん)への返信です.
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