Re: 音声認識からみる日本人のルーツ
投稿者: unkai98687 投稿日時: 2007/03/01 13:34 投稿番号: [132617 / 196466]
jptmd2004 は、何かと「パブロフの犬」みたいに意味もなく食いついてくるが、日本語が中国語より優れていると書いてあるわけではないことぐらい、先の文章から判断できるだろうに・・・
俺は確定申告でそれなりに忙しい。だから日本語の特性を「日本語はなぜ美しいか」・・・黒川伊保子(人工知開発者、脳と言葉の研究者)の著書を引用し、かいつまんで要点を書くよ。
日本語は「母音」を主体に音声を認識する、世界でも稀な言語である。現在確認されている、日本と同様の言語を持つのは、ハワイ語を含めたポリネシア語だけである。
欧米やアジア(韓国を含む)の言語は、「子音」を主体に音声を認識している。これらの言語は「母音」を言葉として認識せず、右脳のノイズ処理領域で「聞き流している」
この差はどのように現れるのか・・・子音認識では自然の音を「ノイズ」ととらえ、また発音体感は、尖った攻撃的な語感を伴う。従って子音語人は自然と対峙する傾向にある。
一方、「母音」を言語脳で聞き取り、身体感覚に結びつけている日本人は、母音と音響波形の似ている自然音も言語脳で聞き取っている。いわば自然は、私達の脳に「語りかけて」来るのである。だから、私達は、虫の音を歌声のように聴き、木の葉がカサコソという音に癒しを感じ、サラサラ流れる小川に弾むような喜びを感じる。自然と融和し、対話しながら私達は生きてきたのだ。
異民族の交雑で人種が生まれてきた欧米やアジア諸国と違い、日本人は、源の音韻が生まれたその場所で、音韻から素直に派生した言葉をそのまま使っている。
例えば、「キ」というのは、硬く尖った発音体感であり、古代日本語では、大地から硬く尖った突出をなす「木」を表す言葉になったとされる。同じ音韻をもつ「来」は、こちらへまっすぐに向かう感じ。キリキリは尖った痛み、キンキンは耳をつんざくような高音、キラキラは氷やガラスのような硬質な物体を解して見える光のこと。「キ」は、さまさまなことばの中に存在して、硬く尖った象を呈している。
こうして、私たち日本人にとって、音韻の発音体感と意識と所作、情景は、歴史上一貫して一致している。このおかげで、この国では、語感だけで作られたことば(擬音語、擬態語)が、日常的に多様されているのである。「くるくる回る」「しくしく痛む」「さらさら流れる」といわれれば、その発音体感が共通のイメージを与えてくれ、誰もがほぼ同じように腑に落ちるのである。
初めて聞く、擬態語でもおおよそ共通の概念を抱く。たとえば「土くれが、ぼんごぼんご落ちていた」といわれたら、多くの人が、大きなもっこりとした土の塊が落ちている風景を思うことだろう。このように音韻の感性モデルは全ての、日本人の意識下にあるといっても過言ではない。
世界の経済主要国の言語すべて「反対側」の言語モデルである以上、日本人の早期外国語教育には注意が必要だ。とくに科学、設計、デザイン、芸術のような分野で、子供にクリエイティブな才能を発揮させようと思ったら、12歳までは、脳を一つの言語モデルに閉じておく必要がある。胎児のときからしっかりとつかんできた感性を、大人の脳になるまで温存しておかなければ、想像力も発揮できないからだ。
俺は確定申告でそれなりに忙しい。だから日本語の特性を「日本語はなぜ美しいか」・・・黒川伊保子(人工知開発者、脳と言葉の研究者)の著書を引用し、かいつまんで要点を書くよ。
日本語は「母音」を主体に音声を認識する、世界でも稀な言語である。現在確認されている、日本と同様の言語を持つのは、ハワイ語を含めたポリネシア語だけである。
欧米やアジア(韓国を含む)の言語は、「子音」を主体に音声を認識している。これらの言語は「母音」を言葉として認識せず、右脳のノイズ処理領域で「聞き流している」
この差はどのように現れるのか・・・子音認識では自然の音を「ノイズ」ととらえ、また発音体感は、尖った攻撃的な語感を伴う。従って子音語人は自然と対峙する傾向にある。
一方、「母音」を言語脳で聞き取り、身体感覚に結びつけている日本人は、母音と音響波形の似ている自然音も言語脳で聞き取っている。いわば自然は、私達の脳に「語りかけて」来るのである。だから、私達は、虫の音を歌声のように聴き、木の葉がカサコソという音に癒しを感じ、サラサラ流れる小川に弾むような喜びを感じる。自然と融和し、対話しながら私達は生きてきたのだ。
異民族の交雑で人種が生まれてきた欧米やアジア諸国と違い、日本人は、源の音韻が生まれたその場所で、音韻から素直に派生した言葉をそのまま使っている。
例えば、「キ」というのは、硬く尖った発音体感であり、古代日本語では、大地から硬く尖った突出をなす「木」を表す言葉になったとされる。同じ音韻をもつ「来」は、こちらへまっすぐに向かう感じ。キリキリは尖った痛み、キンキンは耳をつんざくような高音、キラキラは氷やガラスのような硬質な物体を解して見える光のこと。「キ」は、さまさまなことばの中に存在して、硬く尖った象を呈している。
こうして、私たち日本人にとって、音韻の発音体感と意識と所作、情景は、歴史上一貫して一致している。このおかげで、この国では、語感だけで作られたことば(擬音語、擬態語)が、日常的に多様されているのである。「くるくる回る」「しくしく痛む」「さらさら流れる」といわれれば、その発音体感が共通のイメージを与えてくれ、誰もがほぼ同じように腑に落ちるのである。
初めて聞く、擬態語でもおおよそ共通の概念を抱く。たとえば「土くれが、ぼんごぼんご落ちていた」といわれたら、多くの人が、大きなもっこりとした土の塊が落ちている風景を思うことだろう。このように音韻の感性モデルは全ての、日本人の意識下にあるといっても過言ではない。
世界の経済主要国の言語すべて「反対側」の言語モデルである以上、日本人の早期外国語教育には注意が必要だ。とくに科学、設計、デザイン、芸術のような分野で、子供にクリエイティブな才能を発揮させようと思ったら、12歳までは、脳を一つの言語モデルに閉じておく必要がある。胎児のときからしっかりとつかんできた感性を、大人の脳になるまで温存しておかなければ、想像力も発揮できないからだ。
これは メッセージ 132593 (jptmd2004 さん)への返信です.
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