Re: 健全な議論ができない理由②
投稿者: palmereldritch608 投稿日時: 2007/02/18 02:31 投稿番号: [131791 / 196466]
興味深い指摘だと思います。実は、前々から貴方のおっしゃる支那人のメンタリティーに関する、孤立語の影響について考えていたのですが、上手くいきませんでした。貴方の仰るとおり、たしかに支那は言ったもの勝ちの社会なのです。彼らの議論、とりわけ論争に論理的な文脈は必要ありません。ただ、言い勝てばそれでいいのです。日本企業との労働争議の場で、しまいには、過去の日本の支那戦略まであげつらい、賃金要求するのが彼らです。
私の論敵である、nihao氏は支那人と仕事上の付き合いもある方ですが、彼の頻発する言葉である「理屈ではない」に、nihao氏に対する、支那文化の否定的影響を感じずにいられません。おそらく、かなり苦労なさったのだと思います。
しかし、これは支那人に限ったことではありません。われわれと同じ膠着語に属する、韓国人もそうなのです。したがって、これは語系の問題ではありません。
支那人と韓国人を共通させ、日本人と分かつものは何か?表面的に見るなら、なんといっても、それは公共性の有無だと私には思えます。しかし、公共性とは国家の存続を前提としているものです。明日になれば、この国がなくなるのであれば、誰も公共性など考えなくなるのは自明だからです。たとえば、人を殺しても、明日になれば殺人者を処刑する国家がなくなるというのであれば、殺人の禁止は遵守されえないはずです。
では、公共性の喪失が、何故論理の喪失なのか?論理を司っている言語がまさに公共性そのものであることを考えるなら、これは自明なことであるのかもしれません。
そういう視点から見るなら、支那人とは、自分たちの国家が存続し続けるとは信用していない民族なのでしょう。しかし、これは彼らの歴史的問題ですね。
しかし、かように公共性を欠いた甚大な民族が、彼らにとって信用しがたい国家により、ぶじ統治され続けることが可能なのかどうか?私は否定的です。いずれ、支那は解体するという可能性を、われわれは念頭に置くべきでだと私は考えます。
これは メッセージ 131742 (hanaso2001 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/ffccf4x78_1/131791.html