大人とは?
投稿者: palmereldritch608 投稿日時: 2007/02/10 23:10 投稿番号: [131329 / 196466]
かつて三島由紀夫は、戦前の徴兵制度が、「若者の夢の裁判所」であると評した。若者をかなわぬ夢から覚醒、断念させ、可能な現実に引き戻すという意味だろう。徴兵制度は、若者に自らの限界を悟らせるという側面も持っていたのだ。
誰もが、なんらかの限界を持っている。私は、今この歳からプロ野球選手には絶対になれないだろうし、おそらくは若くてもなれなかったに違いない。
この自らの限界に関する意識とは、生の外部、すなわち死を意識するところから生まれ出るものだ。人生が一回性のものであることを知ることで、誰もが不可能な夢を追うことを止め、現実に立ち返り、自分に出来ることを目指そうとする。
徴兵経験が、若者に何らかの変化をもたらすのだとすれば、それは戦時における自分の死を意識することで、自らを限界付けることであり、また敵国と対峙する共同体の外部を垣間見ることによって、自らが属する共同体の儚さや可憐さを知悉させ、共同体を限界付けることによるものである。かくして、彼は共同体の中での自分の果たすべき役割を知り、自分が共同体に対して何らかの責任を負っていることを知るのである。
大人になるとは、国家や共同体の成員としてふさわしい人格を身につけること以外にはない。
「ああ玉杯に花受けて」という一校寮歌がある。お恥ずかしい話だが、30歳くらいまで、私はこの「玉杯に花を受け」(杯で酒を飲んで)ていたのは、一校生だと思い込んでいたのだ。もちろん違う。なぜならこの歌はこう続いていたからである。
ああ玉杯に 花うけて
緑酒に月の 影やどし
治安の夢に 耽りたる
栄華の巷 低く見て・・・。
気楽に酒を飲んでいるのは、一校生ではなく、これから一校生が統治していこうとしている庶民のほうなのだ。そして、一校生はと言えば、治安の夢に耽りたる、(庶民たちの)栄華の巷を低く見て、決してそれと交わらず、ストイックに生きるのだと詠っているのである。エリート意識紛々と言えばそれまでだが、「治安の夢に耽りたる、(庶民たちの)栄華の巷」の外部には厳しい現実があり、自分たちはやがてそれと直面して行くのだ、との彼らの認識は一応正しい。
似たような状況を描いた作品に、梶井基次郎の「桜の樹の下には」がある。美しい桜の木の下には屍体た埋まっている。との主人公の主張は、「治安の夢」の外側には厳しい現実がある。という寮歌の認識と同じと言って良いだろう。作品は「今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑めそうな気がする」と結んでいるが、もちろん主人公は、そんな気がするだけで、決して村人たちと杯を交えたりはしないのである。そんなことをすれば、もはや知識人ではないからである。
村人たちが酒宴を開いている「治安の夢」とはこのトピの言葉で言うなら、「お花畑」と言うことになるだろうか。しかし大人になるとは、この「お花畑」の外部を知ることを抜きにはありえないはずだ。「お花畑」を守り、秩序付けているルールはそこではもはや通用しない。
もし現代日本人が、大人に成り切れないとするなら、自分たちの住む「お花畑」がしょせんは仮構に過ぎずないという、現実を知ろうとはしないからではないか?彼らにとって世界とは、延々とどこまでも続くお花畑なのだ。かくして、お花畑のルールをどこまでも拡張し、果ては外国人にまで人権や、平等を付与しろなどという、白痴的な主張を繰り広げるのである。
それこそ、栄華の巷で治安の夢に耽り、酒宴をひらく、酔っ払いの業と言うものだ。
誰もが、なんらかの限界を持っている。私は、今この歳からプロ野球選手には絶対になれないだろうし、おそらくは若くてもなれなかったに違いない。
この自らの限界に関する意識とは、生の外部、すなわち死を意識するところから生まれ出るものだ。人生が一回性のものであることを知ることで、誰もが不可能な夢を追うことを止め、現実に立ち返り、自分に出来ることを目指そうとする。
徴兵経験が、若者に何らかの変化をもたらすのだとすれば、それは戦時における自分の死を意識することで、自らを限界付けることであり、また敵国と対峙する共同体の外部を垣間見ることによって、自らが属する共同体の儚さや可憐さを知悉させ、共同体を限界付けることによるものである。かくして、彼は共同体の中での自分の果たすべき役割を知り、自分が共同体に対して何らかの責任を負っていることを知るのである。
大人になるとは、国家や共同体の成員としてふさわしい人格を身につけること以外にはない。
「ああ玉杯に花受けて」という一校寮歌がある。お恥ずかしい話だが、30歳くらいまで、私はこの「玉杯に花を受け」(杯で酒を飲んで)ていたのは、一校生だと思い込んでいたのだ。もちろん違う。なぜならこの歌はこう続いていたからである。
ああ玉杯に 花うけて
緑酒に月の 影やどし
治安の夢に 耽りたる
栄華の巷 低く見て・・・。
気楽に酒を飲んでいるのは、一校生ではなく、これから一校生が統治していこうとしている庶民のほうなのだ。そして、一校生はと言えば、治安の夢に耽りたる、(庶民たちの)栄華の巷を低く見て、決してそれと交わらず、ストイックに生きるのだと詠っているのである。エリート意識紛々と言えばそれまでだが、「治安の夢に耽りたる、(庶民たちの)栄華の巷」の外部には厳しい現実があり、自分たちはやがてそれと直面して行くのだ、との彼らの認識は一応正しい。
似たような状況を描いた作品に、梶井基次郎の「桜の樹の下には」がある。美しい桜の木の下には屍体た埋まっている。との主人公の主張は、「治安の夢」の外側には厳しい現実がある。という寮歌の認識と同じと言って良いだろう。作品は「今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑めそうな気がする」と結んでいるが、もちろん主人公は、そんな気がするだけで、決して村人たちと杯を交えたりはしないのである。そんなことをすれば、もはや知識人ではないからである。
村人たちが酒宴を開いている「治安の夢」とはこのトピの言葉で言うなら、「お花畑」と言うことになるだろうか。しかし大人になるとは、この「お花畑」の外部を知ることを抜きにはありえないはずだ。「お花畑」を守り、秩序付けているルールはそこではもはや通用しない。
もし現代日本人が、大人に成り切れないとするなら、自分たちの住む「お花畑」がしょせんは仮構に過ぎずないという、現実を知ろうとはしないからではないか?彼らにとって世界とは、延々とどこまでも続くお花畑なのだ。かくして、お花畑のルールをどこまでも拡張し、果ては外国人にまで人権や、平等を付与しろなどという、白痴的な主張を繰り広げるのである。
それこそ、栄華の巷で治安の夢に耽り、酒宴をひらく、酔っ払いの業と言うものだ。
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