Re: dorianさん、あるいはドリアンさん?
投稿者: palmereldritch608 投稿日時: 2007/01/28 22:53 投稿番号: [130171 / 196466]
前にも言ったが、支那なる言葉はいささかも蔑称ではない。また私自身も、侮蔑の意味で使用しているのではない。日本語の伝統的文脈に則って、国際的な慣例に則って使用しているのだ。
イギリスはその正式名称を「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」という。これをわれわれはイギリスと呼んでいる。オリンピックではUK(United Kingdom)と略されるが、これはオリンピックにイギリス代表として出場するスコットランド人、アイルランド人にとっては不都合であり、不合理になってしまうことを回避するためである。
また、フィンランドはどうだろうか? Suomen Tasavalta(スオメン・タサワルタ−通称スオミ)なるフィンランド語の正式名称に、英語のFinlandの意味は無い。フィンとはフランス映画の終わりに見られる、finと同義である。フィンランドとは終わりの国、この世の果ての国という意味なのだ。しかし、これに対して、フィンランド政府からの抗議はいまだかつて無かったのである。
国名は極端な侮蔑的意味でもない限り、伝統的な各国の言葉で呼ぶのが世界的な慣例なのである。国名といえども言語であることには変わりない。支那政府のごとき異様な主張が、世界中のどこでも見られないのは、この様な主張は各国語の体系に破壊につながりかねないからなのである。
支那論者の呉智英氏は、中国と日本の中国地方との、笑うに笑えぬ混同の例を挙げている。「言語には差異しかない」とはフェルディナン・ソシュールの発見だが、中国と中国地方の差異の抹消は、まさに言語の破壊であり、日本の文化の破壊に他ならない。私が、「支那」を使用するのは、かかる論理的根拠に基づいている。
さらに問題なのは、誰でも知っているよう、英語のチャイナやポルトガル語のシーナ(China)も支那と同義同源であるという点である。また、ロシアでは今日でも支那をキタイ(契丹・ヒッタイト)と呼んでいる。これらに対して支那政府はいささかの抗議も行っていない。支那が中国と呼べと主張しているのは、旧中華文明圏、実質的には日本に対してだけである。これには、支那人の欧米人コンプレックス、翻っては彼らの有色人種差別が根底にあることに我々は気付くべきであろう。この様な理不尽で不当な民族差別を、はたして我々は受け入れるべきなのだろうか?。
また、「支那」が侮蔑的印象を持っている、と言う主張もあるが、確かに、時としてそういった趣があることを私も否定しない。石原慎太郎氏の「支那」の使用には、いくばくか、その趣が感じられるが、それを理由に「支那」を抹消することはいささかも論理的ではないのである。そんなことを言い出せば、あらゆる言葉は侮蔑語になってしまうからである。例えば、山田と言う名称を、「山田が、ねぇ」などと言うなら、山田は侮蔑名称ということになってしまうのだ。この様な無思考な論理に基づいて、今日に至る言葉狩りが行われてきたことを、我々は深く反省せねばなるまい。
イギリスはその正式名称を「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」という。これをわれわれはイギリスと呼んでいる。オリンピックではUK(United Kingdom)と略されるが、これはオリンピックにイギリス代表として出場するスコットランド人、アイルランド人にとっては不都合であり、不合理になってしまうことを回避するためである。
また、フィンランドはどうだろうか? Suomen Tasavalta(スオメン・タサワルタ−通称スオミ)なるフィンランド語の正式名称に、英語のFinlandの意味は無い。フィンとはフランス映画の終わりに見られる、finと同義である。フィンランドとは終わりの国、この世の果ての国という意味なのだ。しかし、これに対して、フィンランド政府からの抗議はいまだかつて無かったのである。
国名は極端な侮蔑的意味でもない限り、伝統的な各国の言葉で呼ぶのが世界的な慣例なのである。国名といえども言語であることには変わりない。支那政府のごとき異様な主張が、世界中のどこでも見られないのは、この様な主張は各国語の体系に破壊につながりかねないからなのである。
支那論者の呉智英氏は、中国と日本の中国地方との、笑うに笑えぬ混同の例を挙げている。「言語には差異しかない」とはフェルディナン・ソシュールの発見だが、中国と中国地方の差異の抹消は、まさに言語の破壊であり、日本の文化の破壊に他ならない。私が、「支那」を使用するのは、かかる論理的根拠に基づいている。
さらに問題なのは、誰でも知っているよう、英語のチャイナやポルトガル語のシーナ(China)も支那と同義同源であるという点である。また、ロシアでは今日でも支那をキタイ(契丹・ヒッタイト)と呼んでいる。これらに対して支那政府はいささかの抗議も行っていない。支那が中国と呼べと主張しているのは、旧中華文明圏、実質的には日本に対してだけである。これには、支那人の欧米人コンプレックス、翻っては彼らの有色人種差別が根底にあることに我々は気付くべきであろう。この様な理不尽で不当な民族差別を、はたして我々は受け入れるべきなのだろうか?。
また、「支那」が侮蔑的印象を持っている、と言う主張もあるが、確かに、時としてそういった趣があることを私も否定しない。石原慎太郎氏の「支那」の使用には、いくばくか、その趣が感じられるが、それを理由に「支那」を抹消することはいささかも論理的ではないのである。そんなことを言い出せば、あらゆる言葉は侮蔑語になってしまうからである。例えば、山田と言う名称を、「山田が、ねぇ」などと言うなら、山田は侮蔑名称ということになってしまうのだ。この様な無思考な論理に基づいて、今日に至る言葉狩りが行われてきたことを、我々は深く反省せねばなるまい。
これは メッセージ 130138 (sintyou5 さん)への返信です.
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