中国人は弱すぎる②
投稿者: unkai98687 投稿日時: 2006/12/12 10:13 投稿番号: [127366 / 196466]
中国人は弱すぎる②
「島津軍
VS
明軍
」・・・慶長の役 (泗川の戦い)
島津軍(島津義弘)7千人 VS 明軍(董一元)4万〜20万人・・・約6〜28倍差
(島津軍の死傷者200人弱。明軍は8万〜4万人と壊滅的敗北)明軍は石斧で戦ったのか?
戦況・・・
豊臣秀吉が死去し、朝鮮半島に侵攻中の日本軍にも撤退命令が下っていた。しかし明と朝鮮の連合軍が黙って撤退を許すはずもなく、戦闘は継続されていた。そんな状況の中で董一元率いる呼称20万の明軍が泗川城に攻め寄せる。泗川城は船舶の運航を守るために築かれた城で、ここを落とされると退路を断たれるかたちになり、日本軍が全滅する危機にあった。この泗川城に駐屯していたのは島津義弘と島津忠恒率いる島津軍7000人のみだった。
宗氏や立花氏が援軍を申し入れるが何故か義弘はこの申し出を断り、島津家の軍勢だけで明・朝鮮の大軍を迎え撃つことになった。
泗川には文禄に築かれた泗川古城と、慶長の役の時に築城を開始し未完の泗川新城の二つが存在し、古城には500の兵を配置し、義弘・忠恒親子は新城に駐屯していた。
まず明軍は古城に殺到。明軍は5000の損害を出すものの多勢に無勢、守備隊も150の損害を出して古城から撤退した。古城陥落から2日後に明軍は新城を攻撃するがその最中に明軍の陣中にあった弾薬庫が爆発するという不慮の事故が起きる。鉄砲の流れ弾が火薬に当たり引火した説と島津兵が火薬庫に放火したという説があるが、事実は不明である(また爆発したのは泗川古城の食料庫で、食料庫に蓄えられていた食糧を燃やすことによって明・朝鮮軍に長期籠城戦を断念させ、短期決戦へ持ち込むために、島津軍が撤退時に爆破させたという説もある)。
いずれにせよ、明・朝鮮連合軍は混乱に陥り、その間隙を突いて島津軍は城外に打って出た。島津軍の猛烈な攻勢の前に明軍は後退するものの、1万の別働隊が城の手薄な部分を襲わせるが、別働隊の接近に気付いた島津忠長がわずか100騎でこれを迎撃。忠長は苦境に陥るが、援軍が掛けつけて迎撃に成功。義弘や忠恒も自ら刀を振るって敵兵と渡り合うほどの乱戦になるが、戦況は島津軍の優位で進み、明・朝鮮連合軍は漢城までの後退を余儀なくされた。
この結果、明・朝鮮連合軍は多くの戦死者を出し、島津軍の報告では38717人、明の報告書によれば8万余りとなっている。 この戦いにより島津義弘は「鬼石蔓子」(おにしまづ)と恐れられ、その武威は朝鮮だけでなく、明国まで響き渡った。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%97%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%8
島津軍(島津義弘)7千人 VS 明軍(董一元)4万〜20万人・・・約6〜28倍差
(島津軍の死傷者200人弱。明軍は8万〜4万人と壊滅的敗北)明軍は石斧で戦ったのか?
戦況・・・
豊臣秀吉が死去し、朝鮮半島に侵攻中の日本軍にも撤退命令が下っていた。しかし明と朝鮮の連合軍が黙って撤退を許すはずもなく、戦闘は継続されていた。そんな状況の中で董一元率いる呼称20万の明軍が泗川城に攻め寄せる。泗川城は船舶の運航を守るために築かれた城で、ここを落とされると退路を断たれるかたちになり、日本軍が全滅する危機にあった。この泗川城に駐屯していたのは島津義弘と島津忠恒率いる島津軍7000人のみだった。
宗氏や立花氏が援軍を申し入れるが何故か義弘はこの申し出を断り、島津家の軍勢だけで明・朝鮮の大軍を迎え撃つことになった。
泗川には文禄に築かれた泗川古城と、慶長の役の時に築城を開始し未完の泗川新城の二つが存在し、古城には500の兵を配置し、義弘・忠恒親子は新城に駐屯していた。
まず明軍は古城に殺到。明軍は5000の損害を出すものの多勢に無勢、守備隊も150の損害を出して古城から撤退した。古城陥落から2日後に明軍は新城を攻撃するがその最中に明軍の陣中にあった弾薬庫が爆発するという不慮の事故が起きる。鉄砲の流れ弾が火薬に当たり引火した説と島津兵が火薬庫に放火したという説があるが、事実は不明である(また爆発したのは泗川古城の食料庫で、食料庫に蓄えられていた食糧を燃やすことによって明・朝鮮軍に長期籠城戦を断念させ、短期決戦へ持ち込むために、島津軍が撤退時に爆破させたという説もある)。
いずれにせよ、明・朝鮮連合軍は混乱に陥り、その間隙を突いて島津軍は城外に打って出た。島津軍の猛烈な攻勢の前に明軍は後退するものの、1万の別働隊が城の手薄な部分を襲わせるが、別働隊の接近に気付いた島津忠長がわずか100騎でこれを迎撃。忠長は苦境に陥るが、援軍が掛けつけて迎撃に成功。義弘や忠恒も自ら刀を振るって敵兵と渡り合うほどの乱戦になるが、戦況は島津軍の優位で進み、明・朝鮮連合軍は漢城までの後退を余儀なくされた。
この結果、明・朝鮮連合軍は多くの戦死者を出し、島津軍の報告では38717人、明の報告書によれば8万余りとなっている。 この戦いにより島津義弘は「鬼石蔓子」(おにしまづ)と恐れられ、その武威は朝鮮だけでなく、明国まで響き渡った。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%97%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%8
これは メッセージ 127342 (racingschedule さん)への返信です.
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