Re: 中国軍だって悪かったんですよ。
投稿者: yousunwai 投稿日時: 2006/04/22 14:20 投稿番号: [113517 / 196466]
>確かに、当時日本にはいわゆる「不拡大派」と呼ばれる早期和平を主張する人達が軍部にもいました。しかし、その和平そのものを阻止したのもまた日本ではなかったでしょうか?
以下のような感じではないでしょうか?
日中戦争の始まり、盧溝橋事件
昭和一二年(一九三七)七月七日夜半(一〇時半ころ)、北京郊外西南約一六キロの蘆溝橋付近で日本駐屯軍の牟田口連隊所属の第八中隊が夜間演習をしていたとき、数発の実弾射撃の銃声が起こった。日本側は、その付近に駐屯していた中国軍(国民政府の第二九軍)が発砲したものと判断した。翌朝未明(午前三時過ぎ)、再度銃声が起こった。牟田口連隊長は独断で中国陣地の攻撃を命じ(午前四時二三分)、両軍は戦闘状態に入った(午前五時半)。
−−−>誰だかわかんないやつが、日本軍に発砲した。実は、この発砲は、蒋介石軍に対してもなされたという話もある。
最近もっとも有力視されているのは中共陰謀説である。事実、中国共産党は七日夜半の発砲事件の翌八日、つまり、まだ発砲事件の詳細が不明の時点で「日軍蘆溝橋進攻に関する通電」で対日即時開戦論を主張するなど、その反応の異常な速さが注目される。
−−−>誰だかわかんないやつが、中国共産党という有力説がある。ま、説ですけどね。
この頃、「参謀の多くや特務機関も事変の不拡大派でした。」もちろん、拡大したいという派閥がなかったわけではないし、かなりの勢いをもっていました。
この後、何度も、停戦しては、戦闘の繰り返しになり、拡大派が、徐々に勢力を増して行ったようですが、決定的になったのは、
1937年7月29日、通州事件。日本人居留民約260名が虐殺される。通州事件での日本人の殺された方は、尋常なものではありませんでした。
http://www.senyu-ren.jp/MAGO/12.HTM
http://ryutukenkyukai.hp.infoseek.co.jp/tusyu_jiken_1.html
http://www1.ttcn.ne.jp/~heiseiason2/tu-syu.htm
1937年8月9日、和平会談の予定だったが、海軍陸戦隊の大山中尉が惨殺される。
8月9日、大山中尉は斎藤要蔵一等水兵を運転手として(彼は大山のお抱え運転手であったが)上海の虹橋飛行場に向かった。午後6時半ごろ、共同租界の延長にある記念通りを車で通っていたところ、中国保安隊(平和維持部隊)の兵士との間銃撃戦が起こった。
中国側の調査によると、日本側が先に発砲してきた。(あくまで、中国側の調査ですから、その点を考えて下さいね。)この銃撃戦によって大山中尉、斎藤水兵および中国保安隊員1名が死亡した。
日中共同の公式調査によれば、中国保安隊員は背中に銃弾を打ち込まれて即死した。大山は全身に30発以上の銃弾を打ち込まれて即死したが、その体は車外に引きずり出されて、全身は銃剣によって切りつけられ、腹は大きく切り開かれた。頭は銃で殴打され、顔は判別できないほどに損傷し、頭蓋骨は叩き割られた。また彼の靴、札入れ、時計などの貴重品は全て奪われた。
これで、強硬派だらけになってしまったと推測されます。そして、日本軍がこの後、連戦連勝でしたから、この後、その内容が、中国側に厳しくとも、和平案を提出したこと自体が、異例のことです。それでも、蒋介石は、けったわけです。
トラウトマン辺りの流れですが、いいのがありました。
●1938年
1月2日、ドイツ大使トラウトマンが日本の和平案の返事を聞くために蒋介石を訪問しようとしたが、蒋介石は会わず。
1月15日、日本の和平案を蒋介石が蹴る。
1月16日、日本政府が「国民政府(蒋介石)を相手とせず」と声明。
6月12日、蒋介石軍が黄河の堤防を決壊させる。 日本軍による救出活動も虚しく住民60万人が罹災し12万人が行方不明。支那軍はこの黄河と揚子江の堤防決壊を日本軍の仕業と世界中に宣伝。
日本は、戦争を中国大陸で行って、現地住民を苦しめたことは、認めますよ。でもね、人民軽視でなければ、堤防破壊なんてできません。戦争を継続した責任が、中国にもあるんですよ。日本は、謝罪・実質的賠償・反省をしてきました。戦争に、どっちが悪いという決定的なことが言えるものは、そう、多くありません。どっちも、悪かったということの方が多いんです。三つ巴で覇権争いをしていたのですから、これからは、中国共産党・国民党が、反省する番でしょう。中国人だから、中国人を殺して反省しなくて良いなどということはありません。しかも、両者とも、人民不在で、我を張って、戦争が拡\xC2
以下のような感じではないでしょうか?
日中戦争の始まり、盧溝橋事件
昭和一二年(一九三七)七月七日夜半(一〇時半ころ)、北京郊外西南約一六キロの蘆溝橋付近で日本駐屯軍の牟田口連隊所属の第八中隊が夜間演習をしていたとき、数発の実弾射撃の銃声が起こった。日本側は、その付近に駐屯していた中国軍(国民政府の第二九軍)が発砲したものと判断した。翌朝未明(午前三時過ぎ)、再度銃声が起こった。牟田口連隊長は独断で中国陣地の攻撃を命じ(午前四時二三分)、両軍は戦闘状態に入った(午前五時半)。
−−−>誰だかわかんないやつが、日本軍に発砲した。実は、この発砲は、蒋介石軍に対してもなされたという話もある。
最近もっとも有力視されているのは中共陰謀説である。事実、中国共産党は七日夜半の発砲事件の翌八日、つまり、まだ発砲事件の詳細が不明の時点で「日軍蘆溝橋進攻に関する通電」で対日即時開戦論を主張するなど、その反応の異常な速さが注目される。
−−−>誰だかわかんないやつが、中国共産党という有力説がある。ま、説ですけどね。
この頃、「参謀の多くや特務機関も事変の不拡大派でした。」もちろん、拡大したいという派閥がなかったわけではないし、かなりの勢いをもっていました。
この後、何度も、停戦しては、戦闘の繰り返しになり、拡大派が、徐々に勢力を増して行ったようですが、決定的になったのは、
1937年7月29日、通州事件。日本人居留民約260名が虐殺される。通州事件での日本人の殺された方は、尋常なものではありませんでした。
http://www.senyu-ren.jp/MAGO/12.HTM
http://ryutukenkyukai.hp.infoseek.co.jp/tusyu_jiken_1.html
http://www1.ttcn.ne.jp/~heiseiason2/tu-syu.htm
1937年8月9日、和平会談の予定だったが、海軍陸戦隊の大山中尉が惨殺される。
8月9日、大山中尉は斎藤要蔵一等水兵を運転手として(彼は大山のお抱え運転手であったが)上海の虹橋飛行場に向かった。午後6時半ごろ、共同租界の延長にある記念通りを車で通っていたところ、中国保安隊(平和維持部隊)の兵士との間銃撃戦が起こった。
中国側の調査によると、日本側が先に発砲してきた。(あくまで、中国側の調査ですから、その点を考えて下さいね。)この銃撃戦によって大山中尉、斎藤水兵および中国保安隊員1名が死亡した。
日中共同の公式調査によれば、中国保安隊員は背中に銃弾を打ち込まれて即死した。大山は全身に30発以上の銃弾を打ち込まれて即死したが、その体は車外に引きずり出されて、全身は銃剣によって切りつけられ、腹は大きく切り開かれた。頭は銃で殴打され、顔は判別できないほどに損傷し、頭蓋骨は叩き割られた。また彼の靴、札入れ、時計などの貴重品は全て奪われた。
これで、強硬派だらけになってしまったと推測されます。そして、日本軍がこの後、連戦連勝でしたから、この後、その内容が、中国側に厳しくとも、和平案を提出したこと自体が、異例のことです。それでも、蒋介石は、けったわけです。
トラウトマン辺りの流れですが、いいのがありました。
●1938年
1月2日、ドイツ大使トラウトマンが日本の和平案の返事を聞くために蒋介石を訪問しようとしたが、蒋介石は会わず。
1月15日、日本の和平案を蒋介石が蹴る。
1月16日、日本政府が「国民政府(蒋介石)を相手とせず」と声明。
6月12日、蒋介石軍が黄河の堤防を決壊させる。 日本軍による救出活動も虚しく住民60万人が罹災し12万人が行方不明。支那軍はこの黄河と揚子江の堤防決壊を日本軍の仕業と世界中に宣伝。
日本は、戦争を中国大陸で行って、現地住民を苦しめたことは、認めますよ。でもね、人民軽視でなければ、堤防破壊なんてできません。戦争を継続した責任が、中国にもあるんですよ。日本は、謝罪・実質的賠償・反省をしてきました。戦争に、どっちが悪いという決定的なことが言えるものは、そう、多くありません。どっちも、悪かったということの方が多いんです。三つ巴で覇権争いをしていたのですから、これからは、中国共産党・国民党が、反省する番でしょう。中国人だから、中国人を殺して反省しなくて良いなどということはありません。しかも、両者とも、人民不在で、我を張って、戦争が拡\xC2
これは メッセージ 113478 (huaxianglan さん)への返信です.
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