Re: 南京大虐殺は否定できないだろ。
投稿者: jptmd2004 投稿日時: 2006/02/28 15:58 投稿番号: [109372 / 196466]
否定してみなよ。
{当時、日本軍将校であった太田寿男騎兵中佐(敗戦時)の撫順戦犯管理所で書いた供述書によれば、太田中佐は船舶輸送司令部(広島)傘下の南京第二碇泊場司令部少佐として、上海北西部から同13日に攻略した南京市に入った。自分の隊は同16日から18日までの3日間に長江岸の下関碼頭の西側で、同市内から運ばれた中国人の死体約1万9千体を長江に流した。中にはまだ息のある人もいたが、「手鉤ヲ以テ頭部或ハ心臓部ヲ刺突シ絶命セシメテ運搬シタ」という。南京市内にある死体は、攻略部隊がトラックで長江岸に運んだ。12月14日と15日の全体の処理は、同僚の安逹由己少佐が担当した。800人の兵士が処理に当り、10台のトラックと、30隻の小船が使われた。この期間にこの埠頭と下流から長江に投込んだ死体は3万5千体、焼却して埋める地点まで運んだ数は約3万体、計6万5千体(この内重傷瀕死者1500名)。又、安逹少佐の指揮下で16、17日は、下関碼頭の東側で揚子江に投げ込んだ数は1万6千体(重傷瀕死者250名)であった。停泊場司令部が処理した遺体の数は合計で約10万体になる。これに、南京に侵攻した他の部隊の処理数5万体をあわせると軍が処理した数は合計で約15万体になると供述している。
こうした日本軍自身が処理した遺体以外に、南京の民間慈善団体や福祉団体が処理した遺体は、約18万5千体である。その処理数の一番多かったのは、民国18年(1929年)から、南京市社会局に登録されて、慈善事業をおしすすめていた「崇善堂」である。「崇善堂」は、自身の職員だけでは、処理しきれず、臨時工を雇ったり、多くの農民や有志の市民に依拠して遺体処理に当った。「崇善堂」の処理した数は、1937年12月26日から、1938年5月1日までで、男性109,363体、女性2,091体、子供813体、計112,267体と報告している。その埋設個所は各隊毎に記録され、日本敗戦后、南京で開かれた軍事法廷(1947年3月)で、その幾つかの埋設個所を掘り起して、人骨数と報告数との確認がおこなわれている。次いで、処理数の多かったのは、民国12年(1923年)に設立された「紅卍字会」で、この団体の報告によれば、1937年12月22日から、1938年10月までに、南京域内で1793体、南京域外で4万1330体処理したと報告されている。満鉄調査部が、南京陥落後、派遣した調査員の南京班報告書によれば、「紅卍字会」は、600名の隊員を動員して「特務機関ノ指導ノ下ニ、連日、屍体ノ埋葬ニ当リ」、「積極的ニ作業ニ取カカリタル結果著シノ成績ヲ挙ゲ3月15日現在ヲ以テ既ニ城内ヨリ1793、城外ヨリ2万9998計3万1791体ヲ城外下関地区竝上新河地区方面ノ指定地ニ収容セリ、 ……何等カノ方法ヲ以テ資金援助ノ方途ヲ講スベキ時機に逢着セリ、現在使用中ノトラック毎日5〜6倆人夫2〜300名ヲ要シ既ニガソリン補給竝人夫賃捻出モ同会ニテハ其方途無キ迄ニ至ル」と報告している。上記2団体以外に、赤十字会南京分会が1937年12月24日から1938年5月31日までに2万2683体を処理したことが報告されている。 }
http://www.jca.apc.org/nmnankin/lin5.html
http://www.jca.apc.org/nmnankin/liu0.html
{当時、日本軍将校であった太田寿男騎兵中佐(敗戦時)の撫順戦犯管理所で書いた供述書によれば、太田中佐は船舶輸送司令部(広島)傘下の南京第二碇泊場司令部少佐として、上海北西部から同13日に攻略した南京市に入った。自分の隊は同16日から18日までの3日間に長江岸の下関碼頭の西側で、同市内から運ばれた中国人の死体約1万9千体を長江に流した。中にはまだ息のある人もいたが、「手鉤ヲ以テ頭部或ハ心臓部ヲ刺突シ絶命セシメテ運搬シタ」という。南京市内にある死体は、攻略部隊がトラックで長江岸に運んだ。12月14日と15日の全体の処理は、同僚の安逹由己少佐が担当した。800人の兵士が処理に当り、10台のトラックと、30隻の小船が使われた。この期間にこの埠頭と下流から長江に投込んだ死体は3万5千体、焼却して埋める地点まで運んだ数は約3万体、計6万5千体(この内重傷瀕死者1500名)。又、安逹少佐の指揮下で16、17日は、下関碼頭の東側で揚子江に投げ込んだ数は1万6千体(重傷瀕死者250名)であった。停泊場司令部が処理した遺体の数は合計で約10万体になる。これに、南京に侵攻した他の部隊の処理数5万体をあわせると軍が処理した数は合計で約15万体になると供述している。
こうした日本軍自身が処理した遺体以外に、南京の民間慈善団体や福祉団体が処理した遺体は、約18万5千体である。その処理数の一番多かったのは、民国18年(1929年)から、南京市社会局に登録されて、慈善事業をおしすすめていた「崇善堂」である。「崇善堂」は、自身の職員だけでは、処理しきれず、臨時工を雇ったり、多くの農民や有志の市民に依拠して遺体処理に当った。「崇善堂」の処理した数は、1937年12月26日から、1938年5月1日までで、男性109,363体、女性2,091体、子供813体、計112,267体と報告している。その埋設個所は各隊毎に記録され、日本敗戦后、南京で開かれた軍事法廷(1947年3月)で、その幾つかの埋設個所を掘り起して、人骨数と報告数との確認がおこなわれている。次いで、処理数の多かったのは、民国12年(1923年)に設立された「紅卍字会」で、この団体の報告によれば、1937年12月22日から、1938年10月までに、南京域内で1793体、南京域外で4万1330体処理したと報告されている。満鉄調査部が、南京陥落後、派遣した調査員の南京班報告書によれば、「紅卍字会」は、600名の隊員を動員して「特務機関ノ指導ノ下ニ、連日、屍体ノ埋葬ニ当リ」、「積極的ニ作業ニ取カカリタル結果著シノ成績ヲ挙ゲ3月15日現在ヲ以テ既ニ城内ヨリ1793、城外ヨリ2万9998計3万1791体ヲ城外下関地区竝上新河地区方面ノ指定地ニ収容セリ、 ……何等カノ方法ヲ以テ資金援助ノ方途ヲ講スベキ時機に逢着セリ、現在使用中ノトラック毎日5〜6倆人夫2〜300名ヲ要シ既ニガソリン補給竝人夫賃捻出モ同会ニテハ其方途無キ迄ニ至ル」と報告している。上記2団体以外に、赤十字会南京分会が1937年12月24日から1938年5月31日までに2万2683体を処理したことが報告されている。 }
http://www.jca.apc.org/nmnankin/lin5.html
http://www.jca.apc.org/nmnankin/liu0.html
これは メッセージ 109370 (jnwing2001 さん)への返信です.
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