Re: 「六韜」
投稿者: suou161 投稿日時: 2006/02/25 01:03 投稿番号: [109165 / 196466]
>交渉の為に隣国から使者が来て、もしその者が有能(中川)ならば何一つ与えず返せ
>交渉の為に隣国から使者が来て、もしその者が無能(二階)ならば大いに与え、歓待せよ
>そうすれば、隣国では無能な者が重用され、有能な者が失脚する
そしてやがては滅ぶ
それは、愚かな中国民族にしか通じない兵法だと思います。洞察力のない、物事の本質が分からない中国人ならではの論理でしょう。
現に、日本では二階氏のことを重用されるべきと考える人は少ないのじゃないでしょうか。永田町はどうか知りませんが。
これまで日本では長いこと中国の古典がもてはやされてきましたが、やはりどこか、日本人の本性とはそぐわないものを感じていました。
その根本の原因は何かというと、日本人は同胞を信頼し弱いものをいたわるのに対し、中国人は自分以外は信頼できない民族だということです。そのために、残虐なことを5000年の間やり続けてきました。
そういう民族が作り上げた古典は冷静に考えると日本人の本性とは相容れないものがあるのです。ただ、。「敵を知り己を知れば百戦して危うからず」というように、中国を相手にするときは、必要ですが。
例えば、論語に何度でもでてくる「巧言令色少なし仁」、これはにこにことしている人間は信用できないとでもいう意味ですが、日本人には当てはまらないのではないでしょうか。中国人をみている限り、自分の利益になると思えば、実にとろけるような笑顔で、用がすめば般若のような顔に変わります。その笑顔はとても日本人がまねできないようなものです。そういう笑顔で人をだますわけです。戦前、アメリカ人はその笑顔にだまされて、日本より中国の味方をしたと思われます。
中国の古典にだまされて、昔の日本人は笑わないのが男だというような風土がありましたが、日本人は日本人らしく優しさをそのまま出した方がいいように思えます。
また、「一人を慎む」、これは一人でじっといるとろくなことは考えないから、なるべく一人でいることをしないようにするといった意味ですが、これにはずっと昔から疑問を感じていました。日本人なら、一人静かに自らの行動を反省する時間をもつといったことにつとめる人が多いと思うのですが、それに比べて中国人は、インテリに至るまで、人のいないところではろくなことは考えない人間が昔も今も多いということを意味していると思います。
中国の古典すべてに一貫している「衆愚」の観念、これも日本人には当てはまらないと思います。二宮尊徳のように農民出身の人が各藩の財政立て直しをするほど、貧乏な一般庶民でも賢い人はいました。江戸時代の識字率は世界一だったともいわれていました。
ところが、これについても、中国の思想を受け入れて、日本では「よらしむべし知らしむべからず」がずーっとごく最近まで当たり前のことのようにいわれてきました。それを初めて明確に否定したのが小泉総理ではないでしょうか。国民を信頼して、選挙に打って出ました。去年夏の選挙は、与野党を問わず、日本の政治家の「衆愚」観念を見直させるきっかけになったのではないでしょうか。
これについては、おもしろい面があります。かつて、今もそうかもしれませんが、左翼は「よらしむべし知らしむべからず」を使って、体制側は国民を奴隷のように虐げる考えで政治をしているのではないかというような体制側に対する批判をしていました。
それに対し、体制側の思想家、例えば安岡氏などは、国民は難しい政治の本質は分からないのだから、分からせようと努力しても無理だから、国民から信頼できるような政治をすればよいのだというような趣旨のことをいっていました。
現在は隔世の感がありますが、実際、この点については、左翼は本質を突いていたのではないでしょうか。中国では国民を奴隷のように思って政治をするということをぴったり言い当てていたと思います。
それに対して、体制側の思想家などは、中国の古典を日本風に善意に解釈してきたわけですが、日本風にアレンジしないで、読み直すということをしてみるとおもしろいと思います。
中国の古典には、基本的には5000年の間、人民を虐殺してきた民族の精神構造を反映している部分があると思います。もうそろそろ、中国の古典の毒を認識すべき時期にきていると思います。
私自身、反日デモが発生するまで、中国の古典に疑問点はいくつか感じつつも傾倒してきた経緯がありますが、否定的見解に切り替えてから、何となく喪失感が大きく、立て直しを必要としている現状です。
>交渉の為に隣国から使者が来て、もしその者が無能(二階)ならば大いに与え、歓待せよ
>そうすれば、隣国では無能な者が重用され、有能な者が失脚する
そしてやがては滅ぶ
それは、愚かな中国民族にしか通じない兵法だと思います。洞察力のない、物事の本質が分からない中国人ならではの論理でしょう。
現に、日本では二階氏のことを重用されるべきと考える人は少ないのじゃないでしょうか。永田町はどうか知りませんが。
これまで日本では長いこと中国の古典がもてはやされてきましたが、やはりどこか、日本人の本性とはそぐわないものを感じていました。
その根本の原因は何かというと、日本人は同胞を信頼し弱いものをいたわるのに対し、中国人は自分以外は信頼できない民族だということです。そのために、残虐なことを5000年の間やり続けてきました。
そういう民族が作り上げた古典は冷静に考えると日本人の本性とは相容れないものがあるのです。ただ、。「敵を知り己を知れば百戦して危うからず」というように、中国を相手にするときは、必要ですが。
例えば、論語に何度でもでてくる「巧言令色少なし仁」、これはにこにことしている人間は信用できないとでもいう意味ですが、日本人には当てはまらないのではないでしょうか。中国人をみている限り、自分の利益になると思えば、実にとろけるような笑顔で、用がすめば般若のような顔に変わります。その笑顔はとても日本人がまねできないようなものです。そういう笑顔で人をだますわけです。戦前、アメリカ人はその笑顔にだまされて、日本より中国の味方をしたと思われます。
中国の古典にだまされて、昔の日本人は笑わないのが男だというような風土がありましたが、日本人は日本人らしく優しさをそのまま出した方がいいように思えます。
また、「一人を慎む」、これは一人でじっといるとろくなことは考えないから、なるべく一人でいることをしないようにするといった意味ですが、これにはずっと昔から疑問を感じていました。日本人なら、一人静かに自らの行動を反省する時間をもつといったことにつとめる人が多いと思うのですが、それに比べて中国人は、インテリに至るまで、人のいないところではろくなことは考えない人間が昔も今も多いということを意味していると思います。
中国の古典すべてに一貫している「衆愚」の観念、これも日本人には当てはまらないと思います。二宮尊徳のように農民出身の人が各藩の財政立て直しをするほど、貧乏な一般庶民でも賢い人はいました。江戸時代の識字率は世界一だったともいわれていました。
ところが、これについても、中国の思想を受け入れて、日本では「よらしむべし知らしむべからず」がずーっとごく最近まで当たり前のことのようにいわれてきました。それを初めて明確に否定したのが小泉総理ではないでしょうか。国民を信頼して、選挙に打って出ました。去年夏の選挙は、与野党を問わず、日本の政治家の「衆愚」観念を見直させるきっかけになったのではないでしょうか。
これについては、おもしろい面があります。かつて、今もそうかもしれませんが、左翼は「よらしむべし知らしむべからず」を使って、体制側は国民を奴隷のように虐げる考えで政治をしているのではないかというような体制側に対する批判をしていました。
それに対し、体制側の思想家、例えば安岡氏などは、国民は難しい政治の本質は分からないのだから、分からせようと努力しても無理だから、国民から信頼できるような政治をすればよいのだというような趣旨のことをいっていました。
現在は隔世の感がありますが、実際、この点については、左翼は本質を突いていたのではないでしょうか。中国では国民を奴隷のように思って政治をするということをぴったり言い当てていたと思います。
それに対して、体制側の思想家などは、中国の古典を日本風に善意に解釈してきたわけですが、日本風にアレンジしないで、読み直すということをしてみるとおもしろいと思います。
中国の古典には、基本的には5000年の間、人民を虐殺してきた民族の精神構造を反映している部分があると思います。もうそろそろ、中国の古典の毒を認識すべき時期にきていると思います。
私自身、反日デモが発生するまで、中国の古典に疑問点はいくつか感じつつも傾倒してきた経緯がありますが、否定的見解に切り替えてから、何となく喪失感が大きく、立て直しを必要としている現状です。
これは メッセージ 109118 (hahaha_kakattakoiyo さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/ffccf4x78_1/109165.html