Re: qoraboyさん、いつになったらまとまる
投稿者: cosokasokikiki 投稿日時: 2005/10/28 15:26 投稿番号: [101608 / 196466]
ちょっと質問。
>今の天気情報気象図からみても分かるように、琉球から台湾へ行くのが逆風の向かい風で、琉球船は態々釣魚島に立ち寄って大陸へ行くのには無理がある。
行きっぱなしならともかく、交易や朝貢は往復するのだから、これはなんの根拠にもなららいと思いますけど。
>だから、清朝は封建社会で、当時の流儀で領土の概念がある。
>近代は、西欧列強は、植民地を奪うため、都合よく、「先占」と「無主地」との概念を国際法に導入した。
陸地ならともかく、水も無く人が常駐することもできない無人島を領土として支配する必要性が生じたのは、
船舶(軍艦)の性能が向上し、安全保障上の必要性で領海や海域支配、という概念が生まれてからではないでしょうか?
そして、それが東アジアに及んだのは清朝末期で、それ以前は無人島を領有をする意味はなっかった。
したがって、1534年の明代第11次冊封使・陳侃の『使琉球録』の記述にもあるように、
当時の琉球人が同胞が住んでいる久米島に至って初めて「自国に帰ってきた」と認識するのは当然のこと。
qoraboyさんは、現在の感覚で当時をかたっていませんか?
昔の魚釣島は、水も無く、船団が停泊出来る港も無く、断崖絶壁上陸するのも至難の技、人々は長く留まることは出来なかった。
中国人も琉球人も航海の目印にするだけで、途中で上陸することは無かったし、また危険で出来なかったのでは無いでしょうか?
明や清の文献に、上陸したときの記述が詳しく載ってるものは有りますか?(もちろん領土と認識しているような)
*
安全保障上の必要性
*
中継貿易の基地
*
海鳥の羽毛や糞などの採集や、金や銀など鉱物の採掘
当時魚釣島は上記のいずれも該当しませんね、
明も清も琉球も航海中の目印以外の認識は無かった。
これは メッセージ 101578 (qoraboy さん)への返信です.
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