Re: qoraboyさん、いつになったらまとまる
投稿者: keijiban1234 投稿日時: 2005/10/26 20:16 投稿番号: [101454 / 196466]
>中国は明朝から釣魚島を中国の海上戦域防御地域としてしてきた。資料も見せ済み。
「1534年の明代第11次冊封使・陳侃の『使琉球録』については下記を参考に。
球冊封使は、これより先1372年に琉球に派遣されたのを第1回とし、陳侃は第11回めの冊封使でのことですよね。彼以前の十回の使節の往路も州を出て、陳侃らと同じ航路を進んだと想像出来るそうです。(1〜10回の使録は無いからです。)
ちなみに、魚釣島の名が登場するのは1372年で、『順風相送』と云う1403年の明の時代に刊行された物だという事です。
日本の主張
尖閣諸島と南路を経て日本へいたるルートを中国人が知るようになったのは、確かに陳侃使録によってであり、鄭舜功も『日本一艦』の中でこれをあきらかにしている。
『使琉球録』において陳侃は従人の中に日本へいたる路程について知識を有する者がいたことを誌している。その知識を有する者とは、 寧波などに居住する日本人多数からであると、鄭舜功自身が述べているではないか。
中国から琉球への往来は496年間中国に冊封使を琉球へ、琉球は進貢使謝恩使などを中国へそれぞれ赴かせた。
中国が琉球へ往来するようになったのはこのとき以後であって、これにより前に公的なかたちで両国が相互に交通をおこなっていたということは記録上無い。
他方冊封使が琉球へ赴いた回数は冊封・進貢関係の全期間を通じて、合計23回であった。そうしてこれ以外に中国が琉球へ公船を派遣したことはほとんどなかった。
冊封船の23回という数字は約500年間における総数である。これを平均すると22年に1回の割合となる。しかもこの平均はいわば算術的な平均であって、実際には30年あるいは40年といった空白期間のあった例も数多くみられた(張学礼・林鴻年各30年、徐葆光・周煌各37年、李鼎元40年など)。
陳侃のときは最長で前使董旻との間に実に55年の空白があった。
これでは中国人たちがこの航路を経験するのは一生に一度か二度ということとなり、とうていこの航路に関する正確な知識をもちうるはずがなかった。
航海の経験が少ない以上、操舟の術に信がおけなかったこともまた当然である。 陳侃はなぜ琉球人がこの航路を熟知し、操舟の術にも優れていたと記述したのであるかと言うと、それは中国への琉球船の圧倒的な派遣回数である。陳侃までの時代に、琉球船は281回中国へ赴いていた。
これに安南・シャムなどとの交易船が南洋諸地域へ渡っていた回数が加わる。これらの琉球船も帰路尖閣列島を通っていたことはほぼ間違いない。
清国は尖閣諸島については、航路上の目標として、たんに航海日誌や航路図においてか、あるいは旅情をたたえる漢詩の中に、便宜上に尖閣諸島の島嶼の名をあげているに過ぎない。
又、明王朝(1368-1644)の歴史を記した正史の『明史』は、1679年から着手され、60年の歳月を費やして1739年にやっと完成、刊行した勅撰歴史である。『明史』はミャンマー、ラオスについて雲南の「土司」(=外蕃)列伝のなかで同列に記述しているのに対し、「鶏龍国(けいろうこく)」(=台湾)は「日本に属す」と外国伝の日本、呂宋(ルソン島)の間に併記している。
そして清代(1644-1911)の官定史書にも、台湾の領有権については、「日本に属する」と公的に記録されている。
例えば、乾隆版『大清統一志』には、「台湾は古より荒服の地であり、中国と通ぜず、名は東蕃。天啓年間(1621-1627年)紅毛荷蘭夷人(オランダ人)に占拠される。(中略)台湾はもともと日本に属する」と記述している。
要するに中国(明・清)の行政が及ばない台湾から、更に遠くにある尖閣諸島を自国の領土であるとするのには無理がある。
『順風相送』や『使琉球録』などで尖閣諸島のことが記載されていても、それらが直ちに中国の尖閣諸島領有の国家意思とはならない。
又、中国から琉球への使節団よりも、琉球から中国への使節団の派遣回数の方が圧倒的に多いことから、尖閣諸島に対する知識も日本人の方が正確であった。
明治維新後の1871年、琉球の宮古島の住民66人が台湾南部に漂着し、54名が「牡丹社」という部落民に殺害され、残る12名が命からがら帰国するという「牡丹社事件」が起こった。外務卿副島種臣が1873年に北京を訪れ、清国政府と直接交渉したところ、台湾の住民は「化外の民」で「教化の及ばぬところ」とし、清国政府は事件の責任を回避しました。
要するに今までに中国が尖閣諸島を領有した事を証明できる資料もないのです。
だから、「中国が尖閣諸島を領有した」資料を出してください。
「1534年の明代第11次冊封使・陳侃の『使琉球録』については下記を参考に。
球冊封使は、これより先1372年に琉球に派遣されたのを第1回とし、陳侃は第11回めの冊封使でのことですよね。彼以前の十回の使節の往路も州を出て、陳侃らと同じ航路を進んだと想像出来るそうです。(1〜10回の使録は無いからです。)
ちなみに、魚釣島の名が登場するのは1372年で、『順風相送』と云う1403年の明の時代に刊行された物だという事です。
日本の主張
尖閣諸島と南路を経て日本へいたるルートを中国人が知るようになったのは、確かに陳侃使録によってであり、鄭舜功も『日本一艦』の中でこれをあきらかにしている。
『使琉球録』において陳侃は従人の中に日本へいたる路程について知識を有する者がいたことを誌している。その知識を有する者とは、 寧波などに居住する日本人多数からであると、鄭舜功自身が述べているではないか。
中国から琉球への往来は496年間中国に冊封使を琉球へ、琉球は進貢使謝恩使などを中国へそれぞれ赴かせた。
中国が琉球へ往来するようになったのはこのとき以後であって、これにより前に公的なかたちで両国が相互に交通をおこなっていたということは記録上無い。
他方冊封使が琉球へ赴いた回数は冊封・進貢関係の全期間を通じて、合計23回であった。そうしてこれ以外に中国が琉球へ公船を派遣したことはほとんどなかった。
冊封船の23回という数字は約500年間における総数である。これを平均すると22年に1回の割合となる。しかもこの平均はいわば算術的な平均であって、実際には30年あるいは40年といった空白期間のあった例も数多くみられた(張学礼・林鴻年各30年、徐葆光・周煌各37年、李鼎元40年など)。
陳侃のときは最長で前使董旻との間に実に55年の空白があった。
これでは中国人たちがこの航路を経験するのは一生に一度か二度ということとなり、とうていこの航路に関する正確な知識をもちうるはずがなかった。
航海の経験が少ない以上、操舟の術に信がおけなかったこともまた当然である。 陳侃はなぜ琉球人がこの航路を熟知し、操舟の術にも優れていたと記述したのであるかと言うと、それは中国への琉球船の圧倒的な派遣回数である。陳侃までの時代に、琉球船は281回中国へ赴いていた。
これに安南・シャムなどとの交易船が南洋諸地域へ渡っていた回数が加わる。これらの琉球船も帰路尖閣列島を通っていたことはほぼ間違いない。
清国は尖閣諸島については、航路上の目標として、たんに航海日誌や航路図においてか、あるいは旅情をたたえる漢詩の中に、便宜上に尖閣諸島の島嶼の名をあげているに過ぎない。
又、明王朝(1368-1644)の歴史を記した正史の『明史』は、1679年から着手され、60年の歳月を費やして1739年にやっと完成、刊行した勅撰歴史である。『明史』はミャンマー、ラオスについて雲南の「土司」(=外蕃)列伝のなかで同列に記述しているのに対し、「鶏龍国(けいろうこく)」(=台湾)は「日本に属す」と外国伝の日本、呂宋(ルソン島)の間に併記している。
そして清代(1644-1911)の官定史書にも、台湾の領有権については、「日本に属する」と公的に記録されている。
例えば、乾隆版『大清統一志』には、「台湾は古より荒服の地であり、中国と通ぜず、名は東蕃。天啓年間(1621-1627年)紅毛荷蘭夷人(オランダ人)に占拠される。(中略)台湾はもともと日本に属する」と記述している。
要するに中国(明・清)の行政が及ばない台湾から、更に遠くにある尖閣諸島を自国の領土であるとするのには無理がある。
『順風相送』や『使琉球録』などで尖閣諸島のことが記載されていても、それらが直ちに中国の尖閣諸島領有の国家意思とはならない。
又、中国から琉球への使節団よりも、琉球から中国への使節団の派遣回数の方が圧倒的に多いことから、尖閣諸島に対する知識も日本人の方が正確であった。
明治維新後の1871年、琉球の宮古島の住民66人が台湾南部に漂着し、54名が「牡丹社」という部落民に殺害され、残る12名が命からがら帰国するという「牡丹社事件」が起こった。外務卿副島種臣が1873年に北京を訪れ、清国政府と直接交渉したところ、台湾の住民は「化外の民」で「教化の及ばぬところ」とし、清国政府は事件の責任を回避しました。
要するに今までに中国が尖閣諸島を領有した事を証明できる資料もないのです。
だから、「中国が尖閣諸島を領有した」資料を出してください。
これは メッセージ 101409 (qoraboy さん)への返信です.
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