中国問題は支那思想の問題かな?
投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/01/06 13:45 投稿番号: [14885 / 28555]
蜂起直前の状況・旧満州国幹部処刑(一月十日事件) [編集]
1946年1月1日、中共軍(東北民主連軍)後方司令の朱瑞(zh)を隊長、林弥一郎を副隊長とした東北民主連軍航空総隊が設立される。同日、中国共産軍側工作員の内海薫が何者かに殺害される。
1月5日、藤田実彦大佐は中共軍に呼び出され、竜泉ホテルにある中共軍司令部に出頭。劉東元司令は藤田に関東軍が隠している武器を出すよう要求したが、参謀職である藤田は「大隊長や中隊長ではないので知らない」と返答したため、監禁された。以降、有志からの情報は薬を渡しに来る看護婦柴田朝江によって秘密裏に届けられることとなった。柴田は日本軍の特務出身の看護婦で、当時は赤十字病院(旧関東軍臨時第一野戦病院)に勤務していた。劉司令夫人が中共軍軍医の誤診に悩んでいたところ、柴田が適切な診断を行ったため、劉夫妻から専属看護婦の地位を得えられ、「婦長」と呼ばれていた。信頼された柴田朝江は藤田への薬を届ける任を与えられていた。
1月10日、日本人民解放連盟通化支部幹部、高級官吏、日本人遺留民会の指導者ら140名が内海を殺害した容疑で連行され、専員公署の建物に抑留される(一月十日事件)。日本人民解放連盟通化支部は解散させられる。
1月15日[12]午前4時、竜泉ホテルに監禁されていた藤田大佐が3階の窓から脱出し、有志の隠れ家となっていた栗林家へ隠れた(しかしこれは、蜂起に参加するためか、それとも止める為か判然としない。藤田は脱出時に怪我を負い、結局蜂起にはまったく加わらず、八路に逮捕されるまで、栗林家の押入れにずっと居た)。脱出が発覚すると、事前に知らされていなかった柴田は身の危険を感じてホテルの裏口から赤十字病院へ向かい、病院に着くと頭をバリカンで刈り上げて男性になりすました。まもなく中共軍が病院の捜索を始めたため、柴田久軍医大尉の手引きを得て栗林家へ隠れることとなった。
1月某日、林少佐は日本人遺留民を束ねていた桐越一二三のもとを訪れ、自らが桐越の名を彫り込んだ軍刀を桐越の妻に渡している。
1月21日、菅原達郎[13]通化省次長、川内亮通化県副県長、川瀬警務庁長、林通化市副市長は中国共産党軍によって市中引き回しの上で、渾江の河原で公開処刑された。処刑された遺体は何度も撃たれ銃剣で突き刺されハチの巣にされた。後日、日本人遺留民は通化劇場に集められ、前田光繁から「川内亮通化県副県長たちは満州国の幹部であったから処刑は仕方のないことであった」旨の説明がなされた。
1946年1月1日、中共軍(東北民主連軍)後方司令の朱瑞(zh)を隊長、林弥一郎を副隊長とした東北民主連軍航空総隊が設立される。同日、中国共産軍側工作員の内海薫が何者かに殺害される。
1月5日、藤田実彦大佐は中共軍に呼び出され、竜泉ホテルにある中共軍司令部に出頭。劉東元司令は藤田に関東軍が隠している武器を出すよう要求したが、参謀職である藤田は「大隊長や中隊長ではないので知らない」と返答したため、監禁された。以降、有志からの情報は薬を渡しに来る看護婦柴田朝江によって秘密裏に届けられることとなった。柴田は日本軍の特務出身の看護婦で、当時は赤十字病院(旧関東軍臨時第一野戦病院)に勤務していた。劉司令夫人が中共軍軍医の誤診に悩んでいたところ、柴田が適切な診断を行ったため、劉夫妻から専属看護婦の地位を得えられ、「婦長」と呼ばれていた。信頼された柴田朝江は藤田への薬を届ける任を与えられていた。
1月10日、日本人民解放連盟通化支部幹部、高級官吏、日本人遺留民会の指導者ら140名が内海を殺害した容疑で連行され、専員公署の建物に抑留される(一月十日事件)。日本人民解放連盟通化支部は解散させられる。
1月15日[12]午前4時、竜泉ホテルに監禁されていた藤田大佐が3階の窓から脱出し、有志の隠れ家となっていた栗林家へ隠れた(しかしこれは、蜂起に参加するためか、それとも止める為か判然としない。藤田は脱出時に怪我を負い、結局蜂起にはまったく加わらず、八路に逮捕されるまで、栗林家の押入れにずっと居た)。脱出が発覚すると、事前に知らされていなかった柴田は身の危険を感じてホテルの裏口から赤十字病院へ向かい、病院に着くと頭をバリカンで刈り上げて男性になりすました。まもなく中共軍が病院の捜索を始めたため、柴田久軍医大尉の手引きを得て栗林家へ隠れることとなった。
1月某日、林少佐は日本人遺留民を束ねていた桐越一二三のもとを訪れ、自らが桐越の名を彫り込んだ軍刀を桐越の妻に渡している。
1月21日、菅原達郎[13]通化省次長、川内亮通化県副県長、川瀬警務庁長、林通化市副市長は中国共産党軍によって市中引き回しの上で、渾江の河原で公開処刑された。処刑された遺体は何度も撃たれ銃剣で突き刺されハチの巣にされた。後日、日本人遺留民は通化劇場に集められ、前田光繁から「川内亮通化県副県長たちは満州国の幹部であったから処刑は仕方のないことであった」旨の説明がなされた。
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