ああ! 沖縄戦!!!
投稿者: jyorujyusando 投稿日時: 2001/10/06 00:54 投稿番号: [81825 / 177456]
midnightsyndicate2001さん、こんばんは
わたしが読んで参考にしたものは
公式ガイドブック
”ひめゆり平和祈念資料館”
の生き残った女学生たちの証言をつづったものと
沖縄戦の解説です。
その最後の方に戦没者数がのっています。
沖縄戦戦没者数
日本側 188,136人
うち本土出身軍人 65,908人
沖縄県出身の人 122,228人
軍人 28,228人
住民 (戦闘参加者) 57,044人
一般住民(推定) 36,956人
米軍側 12,520人
総計 200,656人
1945年4月1日
米軍は沖縄本島に上陸した。
上陸部隊は18万3千人、後方の支援部隊を入れると54万8千人の大軍だった。
5月下旬米軍は軍司令部のある首里にせまった、
しかし、牛島司令官は最後の一人まで戦いつづけると、
軍を南部に撤退させた。
約一万の患者をかかえていた各地の野戦病院などは
砒素入りのミルクを飲ませたり、手榴弾を与えて、重症患者を放置した。
6月18日 牛島司令官は壊滅状態の軍に「最後の一兵まで戦って悠久の大義に生きよ」
と、無期限戦闘の命令を下し投降も許さず,
陸軍病院も解散命令がでた・・・
それから、わずか5・6日の間に約200名の少女らが死んだ。
ひめゆりの塔のガマには、100名が残っていたが、
6月19日早朝、米軍のガス弾により、80余りが死亡した。
群集は直径1キロの円内に袋の鼠となり、殺されていった.
山城丘陵での米軍の猛攻は、戦闘員も非戦闘員もない一方的な殺戮であった。
海岸線は死体が折り重なり、無数の屍が潮に浮かび、波打ち際に打ち寄せられていた.
掃討戦はつづいた。
牛島司令官の自決後も、約9000名の日本兵を殺し,約3000名を捕虜にした。
一帯のガマからは、約8万人の避難民が米軍に収容された。
そのほとんどが、傷ついた子供と婦人と老人だった。
わたしが読んで参考にしたものは
公式ガイドブック
”ひめゆり平和祈念資料館”
の生き残った女学生たちの証言をつづったものと
沖縄戦の解説です。
その最後の方に戦没者数がのっています。
沖縄戦戦没者数
日本側 188,136人
うち本土出身軍人 65,908人
沖縄県出身の人 122,228人
軍人 28,228人
住民 (戦闘参加者) 57,044人
一般住民(推定) 36,956人
米軍側 12,520人
総計 200,656人
1945年4月1日
米軍は沖縄本島に上陸した。
上陸部隊は18万3千人、後方の支援部隊を入れると54万8千人の大軍だった。
5月下旬米軍は軍司令部のある首里にせまった、
しかし、牛島司令官は最後の一人まで戦いつづけると、
軍を南部に撤退させた。
約一万の患者をかかえていた各地の野戦病院などは
砒素入りのミルクを飲ませたり、手榴弾を与えて、重症患者を放置した。
6月18日 牛島司令官は壊滅状態の軍に「最後の一兵まで戦って悠久の大義に生きよ」
と、無期限戦闘の命令を下し投降も許さず,
陸軍病院も解散命令がでた・・・
それから、わずか5・6日の間に約200名の少女らが死んだ。
ひめゆりの塔のガマには、100名が残っていたが、
6月19日早朝、米軍のガス弾により、80余りが死亡した。
群集は直径1キロの円内に袋の鼠となり、殺されていった.
山城丘陵での米軍の猛攻は、戦闘員も非戦闘員もない一方的な殺戮であった。
海岸線は死体が折り重なり、無数の屍が潮に浮かび、波打ち際に打ち寄せられていた.
掃討戦はつづいた。
牛島司令官の自決後も、約9000名の日本兵を殺し,約3000名を捕虜にした。
一帯のガマからは、約8万人の避難民が米軍に収容された。
そのほとんどが、傷ついた子供と婦人と老人だった。
これは メッセージ 81765 (midnightsyndicate2001 さん)への返信です.
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