よく分かりました②
投稿者: kenjixjw 投稿日時: 2001/09/30 04:01 投稿番号: [77139 / 177456]
>信仰とは、ある意味賭けです。
自分に分からないことが多い。いくら頭で考えても、知性ではもうどうしようもない。
しかし、神の愛、キリストの愛を知りたい。触れてみたい。本当の愛があるのなら欲しい。というなら、賭けて、飛び込む。
それが信仰です。
クリスチャンは、常にこの姿勢を日常で繰り返しつづけているひとのことをいいます。私はそうです。
私も今も全く同じ考えですし、JW時代はまさにそうでした。
しかし、なぜ理性でとらえようとすることが悪いのか分かりません。あなたは分からなくても信じられるというかもしれませんが、全くわかっていないわけではないでしょう。
肝心なことが分からなければ、それを信じられる人間などいやしませんよ。またそのような立場は、全体主義、ナチズム、日本の軍国主義等の温床ともなる危険性を秘めています。日本のような自由の保障されている豊かな国ではそのようなことを言っていても特に問題は生じませんが、他の多くの国ではこのような考えが権力者によって悪用され、国民は言論の自由もなくひどい生活を強いられています。
また自由が一応保障されている先進国においても、自由であるがゆえにカルトやおかしな思想団体が数多く生まれており、そのような組織でも同様の苦しみを味わわされている人がたくさんいます。
そのような不公正がどうして生まれてくるのか、理性でもって追求することもある意味では信仰の実践であるのではないでしょうか。
よく分からないからといって、社会の諸問題に目を向けようとしない、考えようとしない人の信仰というのは私は信用できません。
女性のクリスチャンは貴方と同じようなことを言われる人が多いでしょう。しかし男性で宗教に入る人は女性より圧倒的に理性でもって信仰を受け入れているはずです。貴方と同じような立場を表明される男性の信者というのは、それは口先だけで本当は理性でしかとらえられないか、あまり物事を深く考えたり追求したりするのが苦手な純朴な人か、もしくは信仰などなく別の動機がある場合などです。理性的に考えてキリスト教会の教理などは全く信じられないが、あくび様の言われるようなキリストの愛については全面的に受け入れ信仰する場合もあるでしょう。そういうクリスチャンなら、貴方のように三位一体を固く信じているなどとは言いません。なぜなら、三位一体論は理性的に考えると全く理論的に破綻しており、その教理の形成されてきた教会史を調べるといかに欺瞞的であるかがすぐに分かるからです。
しかし、三位一体を信ずることにより神に近づくことができるという信仰も私はもちろん認めます。神を本当に認識することなど不可能なのですから、三位一体を信じるか信じないかなどということは単なる表面上のことにすぎないからです。よって、三位一体を信じないのはすべて異端であると切って捨てるクリスチャンは私には滑稽にさえ思えます。
神が人間を男と女に創られた以上、男性的な神へのアプローチの仕方が認められるはずでしょう。
よって私は現在のところ、この矛盾と不公正に満ち満ちた世の中でどんな苦労があっても生き抜くことが信仰の道であり、またその過程でどうしても無視できない諸問題についても出来うる限り理性でもって対処しより良い道を捜し求めることが信仰の実践の一つであると思っています。
もっといえば、すべての人間が神の創造物である以上、人として生きることそのものがすべて神へとつながっていると思っています。
回り道、もしくは別の誤った道と言われるかもしれませんが、私は私なりに考えて今のところはこういう状況で生活しています。いつかまた神を喜びを持って受け入れられる日が来るよう願っています。
自分に分からないことが多い。いくら頭で考えても、知性ではもうどうしようもない。
しかし、神の愛、キリストの愛を知りたい。触れてみたい。本当の愛があるのなら欲しい。というなら、賭けて、飛び込む。
それが信仰です。
クリスチャンは、常にこの姿勢を日常で繰り返しつづけているひとのことをいいます。私はそうです。
私も今も全く同じ考えですし、JW時代はまさにそうでした。
しかし、なぜ理性でとらえようとすることが悪いのか分かりません。あなたは分からなくても信じられるというかもしれませんが、全くわかっていないわけではないでしょう。
肝心なことが分からなければ、それを信じられる人間などいやしませんよ。またそのような立場は、全体主義、ナチズム、日本の軍国主義等の温床ともなる危険性を秘めています。日本のような自由の保障されている豊かな国ではそのようなことを言っていても特に問題は生じませんが、他の多くの国ではこのような考えが権力者によって悪用され、国民は言論の自由もなくひどい生活を強いられています。
また自由が一応保障されている先進国においても、自由であるがゆえにカルトやおかしな思想団体が数多く生まれており、そのような組織でも同様の苦しみを味わわされている人がたくさんいます。
そのような不公正がどうして生まれてくるのか、理性でもって追求することもある意味では信仰の実践であるのではないでしょうか。
よく分からないからといって、社会の諸問題に目を向けようとしない、考えようとしない人の信仰というのは私は信用できません。
女性のクリスチャンは貴方と同じようなことを言われる人が多いでしょう。しかし男性で宗教に入る人は女性より圧倒的に理性でもって信仰を受け入れているはずです。貴方と同じような立場を表明される男性の信者というのは、それは口先だけで本当は理性でしかとらえられないか、あまり物事を深く考えたり追求したりするのが苦手な純朴な人か、もしくは信仰などなく別の動機がある場合などです。理性的に考えてキリスト教会の教理などは全く信じられないが、あくび様の言われるようなキリストの愛については全面的に受け入れ信仰する場合もあるでしょう。そういうクリスチャンなら、貴方のように三位一体を固く信じているなどとは言いません。なぜなら、三位一体論は理性的に考えると全く理論的に破綻しており、その教理の形成されてきた教会史を調べるといかに欺瞞的であるかがすぐに分かるからです。
しかし、三位一体を信ずることにより神に近づくことができるという信仰も私はもちろん認めます。神を本当に認識することなど不可能なのですから、三位一体を信じるか信じないかなどということは単なる表面上のことにすぎないからです。よって、三位一体を信じないのはすべて異端であると切って捨てるクリスチャンは私には滑稽にさえ思えます。
神が人間を男と女に創られた以上、男性的な神へのアプローチの仕方が認められるはずでしょう。
よって私は現在のところ、この矛盾と不公正に満ち満ちた世の中でどんな苦労があっても生き抜くことが信仰の道であり、またその過程でどうしても無視できない諸問題についても出来うる限り理性でもって対処しより良い道を捜し求めることが信仰の実践の一つであると思っています。
もっといえば、すべての人間が神の創造物である以上、人として生きることそのものがすべて神へとつながっていると思っています。
回り道、もしくは別の誤った道と言われるかもしれませんが、私は私なりに考えて今のところはこういう状況で生活しています。いつかまた神を喜びを持って受け入れられる日が来るよう願っています。
これは メッセージ 75174 (amarinimohidoi さん)への返信です.
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