感情論ぬきにして
投稿者: yamaokikayoko 投稿日時: 2001/09/16 18:16 投稿番号: [41409 / 177456]
なぜ人を殺してはいけないか?
それは「社会」の中に共存しているからであり、人為的に設けられた秩序に沿わねば自分も安心して生活できないからそれを守ることが「正義」とされるのでしょう。
べつに、普遍的正義などあり得ないし、普遍的道理もあり得ない。
人間の都合で法律や倫理、ルールが定められる。
そこそこ幸せな人、平和な人は、自分の所属するそれぞれの小社会のルールに沿うことに異義が無い。
しかし、努力しても幸せになれないような環境から逃れられずにいる人達、及びそういった不安を覚える人たちとしては、そのルール自体、ルールを設けた者に対し異義申立てがあって当然だ。
学生運動は小さなものだ。
もっと小さなもの…私で言えば、脅威である母親との共存で何度も起きる自殺衝動及び殺意、これを打破すべく、時折起こす大喧嘩。
しかし、何度繰り返しても発展性が無い状況を悟ったとき、これは強引な手段を使わざるを得なくなる。
喧嘩でもダメならどちらかが口が利けなくなるまで実力行使するしかない、と思うもの。
今はまだギリギリのエッジの上を歩いているが。
私の場合、理解者の存在があっただけで救われたと思っているし、私の「殺意」を肯定してくれる人のお陰で行為に出る気持ちが完全に押さえられている。
手元に自殺用の毒薬があるだけで、それがお守りとなって、「いつでも死ねる」という安心感で、生きながられている人達もいるように。
オサマ・ビン・ラディンの行為は、社会的に見れば当然「悪」であろうが、彼の中であの手段を選ばざるを得なかった壮絶な軌跡の中で、彼や彼と同じ思想を持つ者たちへの第三者的理解者が出て、小集団及び弱者の思想の尊重を提唱することが足りなかったことに問題意識を持たねば、根本的解決にはならない思う。
オウムの麻原とラディンを同一視する人もいるが、ラディンは麻原のように女性をはべらせ好き放題したり、おいしい物を食べ暮らしたり、自分の妻や子を優遇し家来に仕えさせたりしているのだろうか?
フェアに参政権も与えられ、大した迫害も受けていない人間、個人レベルの悩みを持つ小集団が、攻撃の対象を国家に向けたのと、ラディンの行為の持つ意味が一緒なのだろうか?
私はこの掲示板において小さな「テロリスト」だったと思っている。
我流の論理及び道徳的動機を掲げ、大勢の投稿者等を傷つけその世界を変えようとしてきたのだから。
それをしているのは紛れも無くyamaokikayokoに書かせる私自身であり、自殺も母を殺害することもできぬ私の中の私が唯一「自分」を出せる場でもあった。
今でこそyamaokiはテロリズムを抑制した投稿パターンを取っているけれど、二年前のデビュー時はまさにテロをやっていた。
その私自身のテロリズムを理解できる人間の登場と、愛する人間の登場により、私の投稿バターンは大きく変化したんだ、これでも。
そんな私だけれど、ここへ来て主張してきたこと、思想を訴えつづけることに疲れてしまった。
今はもう、ひとりでこんなことしつづける気にはなれなくなったんだ。
倒壊した世界貿易センタービルに自分の愛する人がいた人は、恐らく冷静ではいられず、普遍的な考え方などできないだろう。感情論になる。
私は当事者ではないので感情論など語っても結局は同情に過ぎないし、真理の追究にもならないと思っているので、衝撃的なあのシーンを見て3日間以外は、あくまで意図的に中立の見方をすることに正当性を感じている。
社会的に見て当然、被害の大きさなどから考えて、世界各国の非難を受けるべき行為であったことなどは重々認識しているつもりだ。
それでもあえて、根本的な問題解決の方向性を考える場合、正義を掲げた「制裁」という方法で憎き弱者達を潰そうとするアメリカには、私としては批判的な目を向けざるを得ないので、被害者及び同情をしている多くの人達の反感を買うような主張をせざるを得ないかもしれない。
それが、気力がないんだ。
私は殆どの人から受け入れられないことを主張する力を失った。
それは「社会」の中に共存しているからであり、人為的に設けられた秩序に沿わねば自分も安心して生活できないからそれを守ることが「正義」とされるのでしょう。
べつに、普遍的正義などあり得ないし、普遍的道理もあり得ない。
人間の都合で法律や倫理、ルールが定められる。
そこそこ幸せな人、平和な人は、自分の所属するそれぞれの小社会のルールに沿うことに異義が無い。
しかし、努力しても幸せになれないような環境から逃れられずにいる人達、及びそういった不安を覚える人たちとしては、そのルール自体、ルールを設けた者に対し異義申立てがあって当然だ。
学生運動は小さなものだ。
もっと小さなもの…私で言えば、脅威である母親との共存で何度も起きる自殺衝動及び殺意、これを打破すべく、時折起こす大喧嘩。
しかし、何度繰り返しても発展性が無い状況を悟ったとき、これは強引な手段を使わざるを得なくなる。
喧嘩でもダメならどちらかが口が利けなくなるまで実力行使するしかない、と思うもの。
今はまだギリギリのエッジの上を歩いているが。
私の場合、理解者の存在があっただけで救われたと思っているし、私の「殺意」を肯定してくれる人のお陰で行為に出る気持ちが完全に押さえられている。
手元に自殺用の毒薬があるだけで、それがお守りとなって、「いつでも死ねる」という安心感で、生きながられている人達もいるように。
オサマ・ビン・ラディンの行為は、社会的に見れば当然「悪」であろうが、彼の中であの手段を選ばざるを得なかった壮絶な軌跡の中で、彼や彼と同じ思想を持つ者たちへの第三者的理解者が出て、小集団及び弱者の思想の尊重を提唱することが足りなかったことに問題意識を持たねば、根本的解決にはならない思う。
オウムの麻原とラディンを同一視する人もいるが、ラディンは麻原のように女性をはべらせ好き放題したり、おいしい物を食べ暮らしたり、自分の妻や子を優遇し家来に仕えさせたりしているのだろうか?
フェアに参政権も与えられ、大した迫害も受けていない人間、個人レベルの悩みを持つ小集団が、攻撃の対象を国家に向けたのと、ラディンの行為の持つ意味が一緒なのだろうか?
私はこの掲示板において小さな「テロリスト」だったと思っている。
我流の論理及び道徳的動機を掲げ、大勢の投稿者等を傷つけその世界を変えようとしてきたのだから。
それをしているのは紛れも無くyamaokikayokoに書かせる私自身であり、自殺も母を殺害することもできぬ私の中の私が唯一「自分」を出せる場でもあった。
今でこそyamaokiはテロリズムを抑制した投稿パターンを取っているけれど、二年前のデビュー時はまさにテロをやっていた。
その私自身のテロリズムを理解できる人間の登場と、愛する人間の登場により、私の投稿バターンは大きく変化したんだ、これでも。
そんな私だけれど、ここへ来て主張してきたこと、思想を訴えつづけることに疲れてしまった。
今はもう、ひとりでこんなことしつづける気にはなれなくなったんだ。
倒壊した世界貿易センタービルに自分の愛する人がいた人は、恐らく冷静ではいられず、普遍的な考え方などできないだろう。感情論になる。
私は当事者ではないので感情論など語っても結局は同情に過ぎないし、真理の追究にもならないと思っているので、衝撃的なあのシーンを見て3日間以外は、あくまで意図的に中立の見方をすることに正当性を感じている。
社会的に見て当然、被害の大きさなどから考えて、世界各国の非難を受けるべき行為であったことなどは重々認識しているつもりだ。
それでもあえて、根本的な問題解決の方向性を考える場合、正義を掲げた「制裁」という方法で憎き弱者達を潰そうとするアメリカには、私としては批判的な目を向けざるを得ないので、被害者及び同情をしている多くの人達の反感を買うような主張をせざるを得ないかもしれない。
それが、気力がないんだ。
私は殆どの人から受け入れられないことを主張する力を失った。
これは メッセージ 1 (messages_admin さん)への返信です.
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