ふと 思うこと
投稿者: seelenmesse 投稿日時: 2001/09/16 04:15 投稿番号: [38833 / 177456]
今回の惨事でよく使われる「善と悪」という言葉。これについて私は考えさせられる。私も人間なので、勿論私なりの基準の「善と悪」はある。だがそれ以前に、人間を支配するものは「生と死」ではなかろうか。「生と死」がまずあり、人間は誰しも「生」に重きを置き「死」を遠ざけ歓迎しない。これは当たり前のことだ。「死」が歓迎されるなどということは、人間の生物としての危機に瀕する。ゆえに「善と悪」の構図が発生する。そして「生死」をめぐる、多様な「善と悪」が生まれた。そこには個人的エゴイズムも複雑に絡み合う。
「生」を尊重する人々の、価値観の多数決によって「善」は形づくられ、広く支持される。「生」を脅かすものは「悪」となり、排除の論理に同胞は集結する。
私だって「死」は強烈に怖い。だが、人類を客観的に振り返る時、例えば宗教は決して崇高ではなく「崇高であるべき」と、人間が生み出し、虚無の自然界に設け位置付けた一つの座標であるように思う。
私達は、言葉を持たない木々を伐採し、多くの動物を絶滅に追い込み、彼らの悲鳴に耳をかさず、ひたすら「人類の平和」を唱えてきた。だが、ひょっとすると、これからその「平和」の為に、またしても人間は無数の悲鳴と、流れ出る血にまみれていくことになるかも知れない。
私は、これ以上人間が命を落とすのは見たくない。しかし、受け容れたくはないが、この姿こそが、人間の本質であり、それが「自然」なのかも知れないと思う。
今回の衝撃的な映像を目にして、涙を流し、震えるのが人間で、それは生きていることの最も生々しい証であるように感じた。もし、あの映像を見て、感情の起伏も無く、鳥肌も立たないようであれば、報復も起こらない。しかし、それはもはや人間ではないだろう。皮肉なものである。
抽象的に、感じた事を書いてみたが、これはこれで、勿論私も一人の日本人として、この先の一国民としての在り方は、具体的に考えて行きたい。全くなんの座標も無い中で生きて行くことは極めて困難だし、何らかの価値観に基づいて生きて行くのが「人間」であるから。しかし、覚悟は必要だろう。私も他ならない「愚かな人間の一人」に違いないからだ。
テロによる多くの犠牲者に涙を流し、もしかするとこれから起こるかも知れない争いの犠牲者に涙を流し、或いは自分の家族を失い涙を流し、怒りを感じた時、私は誰に報復すればよいのかわからない。そこに残るのは「生と死」と、感情と血にまみれた自分だけかも知れない。
「生」を尊重する人々の、価値観の多数決によって「善」は形づくられ、広く支持される。「生」を脅かすものは「悪」となり、排除の論理に同胞は集結する。
私だって「死」は強烈に怖い。だが、人類を客観的に振り返る時、例えば宗教は決して崇高ではなく「崇高であるべき」と、人間が生み出し、虚無の自然界に設け位置付けた一つの座標であるように思う。
私達は、言葉を持たない木々を伐採し、多くの動物を絶滅に追い込み、彼らの悲鳴に耳をかさず、ひたすら「人類の平和」を唱えてきた。だが、ひょっとすると、これからその「平和」の為に、またしても人間は無数の悲鳴と、流れ出る血にまみれていくことになるかも知れない。
私は、これ以上人間が命を落とすのは見たくない。しかし、受け容れたくはないが、この姿こそが、人間の本質であり、それが「自然」なのかも知れないと思う。
今回の衝撃的な映像を目にして、涙を流し、震えるのが人間で、それは生きていることの最も生々しい証であるように感じた。もし、あの映像を見て、感情の起伏も無く、鳥肌も立たないようであれば、報復も起こらない。しかし、それはもはや人間ではないだろう。皮肉なものである。
抽象的に、感じた事を書いてみたが、これはこれで、勿論私も一人の日本人として、この先の一国民としての在り方は、具体的に考えて行きたい。全くなんの座標も無い中で生きて行くことは極めて困難だし、何らかの価値観に基づいて生きて行くのが「人間」であるから。しかし、覚悟は必要だろう。私も他ならない「愚かな人間の一人」に違いないからだ。
テロによる多くの犠牲者に涙を流し、もしかするとこれから起こるかも知れない争いの犠牲者に涙を流し、或いは自分の家族を失い涙を流し、怒りを感じた時、私は誰に報復すればよいのかわからない。そこに残るのは「生と死」と、感情と血にまみれた自分だけかも知れない。
これは メッセージ 38351 (bau さん)への返信です.
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