「戦後」60年_5
投稿者: pyu_pyu_kitakaze 投稿日時: 2005/07/29 13:20 投稿番号: [173693 / 177456]
新聞記者が見たビルマ派遣軍幹部連中腐敗の構造
第一線では将兵が食無く弾無く、敵戦車に蹂躙されながら死闘を繰り返していたとき彼らはラングーンで、はたまた日本の軽井沢にも似た避暑地メイミョーで何をしていたのか? 前線へ出ようともしない参謀たち、戦の状況も理解できず、夜な夜な酒と女を求めて料亭通いを繰り返す幹部たち、彼らに比べるとノーパンしゃぶしゃぶ狂いの大蔵君がかわいく見えてくる。いや、目の届かない在外公館では外務君達によって今でも同じようなことが繰り返されているのかもしれないが。
昭和17年半ばの様子を読売新聞記者若林政夫氏は次のように書いている。
星の旦那たち
3カ月ぶりにラングーンに帰った僕はその復興ぶりにまず驚いたが、同時にラングーンが印度人の街でありビルマ人の街ではないことを発見して2度驚いた。印度人の生活力の旺盛さは華僑を凌ぐくらいだ。ラングーンの目抜き通りを歩くと、めぼしい商店や気の利いた飲食店はどれもこれも印度人か、中国人経営、ビルマ人経営なんか一軒もなかった。
三度びっくりしたことは陸海競って専用料亭を持ち、日とともに日本の女の子が殖え、いやな言葉だがいわゆる慰安所という、お女郎屋が雨後の筍のようにニョキニョキ出来てゆくことだった。
そのお職は、なんといっても陸軍の星の旦那方が御専用の粋香園にとどめをさす。こいつがラングーンに進出したことについてはこんなことが、まことしやかにいわれていた。
粋香園というのはかっての軍都久留米の料理屋で、例の割腹自殺をした杉山元帥が久留米の師団長時代にごひいきにしていた家だとかで、大の客筋の師団はなくなる。統制統制でにっちもさっちもゆかなくなって、廃業のご挨拶におやじが元帥邸に伺候したところまあ少し待て、俺が、いい口をさがしてやるということになった。それからまもなく戦争がはじまる、すぐ上京せよということで、お前ラングーンに行けということになったのだと。ありそうなことだ。
それはともかくとして、ラングーン一流のクラブをいただいて、そこに陣取ったこの一隊は総勢150名になんなんとする大部隊で、芸妓、はんぎょく、はもとより女中、下働き、料理番。これまではわかるがあとが凄い。髪結いさんに三味線屋、鳴物屋、仕立てやに洗い張り屋にお医者さんまで、これが婦人科兼泌尿器科医であることはもちろんのことだ。それに青畳、座布団、屏風、障子、会席膳一式まで海路はるばる監視哨つきの御用船で、つつがなくラングーンに御着到になったのだ。
湿気の多いビルマでは三味線も太鼓も、鼓も、こわれやすいし、御相手がお相手で、相当の破損を覚悟してのこと、暑いビルマではおべべも、汗まみれになるというので仕立屋さんや、洗い張り屋さんの配属となったもの。それでも輜重行李から、衛生隊まで引きつれての進撃ぶりは大したものだ。それだけにお値段も滅法おたかく相手にもしてくれなかったが、なにもかも留守宅送金の僕ら軍属どもには無用の長物、高根の花だった。
灯ともしごろともなれば、青、赤、黄の小旗のついたトヨダさんが門前に並んで、椰子の樹陰から粋な音じめがもれてくるという始末で、チークの床に青畳を敷きつめた宴会場では明石か絽縮緬の単衣かなにかをお召しになった久留米芸者のお座付きからはじまってあとは、例によって例の放歌乱舞が日ごと夜ごとの盛宴に明け暮れていた。
S奴姐さんはA参謀、M丸さんはY隊という具合で、僕ら軍属や民間人はとても姐さん方に拝謁を得るのは難事中の難事だった。安い方の食堂であやしげなおすしの皮剥ぎをやりながら、何のことはない下手なラジオを聞きながら一杯やっているようなもので、奥座敷からさかんにきこえる嬌声に指をくわえ、膝を抱えて、「馬鹿にしてやがる! 戦地だぞ」 なんて、はかない正義感に鬱憤をもらしながらビルマ女のお酌で防腐剤入りの日本酒でテーブルをたたいてトラになるのがせいぜいだった。
(以下略)
http://kurohune.hp.infoseek.co.jp/Burma/imparl/huhai.html
(注:「星の旦那」というのは,日本帝国陸軍将官のこと)
「大東亜戦争史を語る会」
http://kurohune.hp.infoseek.co.jp/index.html
第一線では将兵が食無く弾無く、敵戦車に蹂躙されながら死闘を繰り返していたとき彼らはラングーンで、はたまた日本の軽井沢にも似た避暑地メイミョーで何をしていたのか? 前線へ出ようともしない参謀たち、戦の状況も理解できず、夜な夜な酒と女を求めて料亭通いを繰り返す幹部たち、彼らに比べるとノーパンしゃぶしゃぶ狂いの大蔵君がかわいく見えてくる。いや、目の届かない在外公館では外務君達によって今でも同じようなことが繰り返されているのかもしれないが。
昭和17年半ばの様子を読売新聞記者若林政夫氏は次のように書いている。
星の旦那たち
3カ月ぶりにラングーンに帰った僕はその復興ぶりにまず驚いたが、同時にラングーンが印度人の街でありビルマ人の街ではないことを発見して2度驚いた。印度人の生活力の旺盛さは華僑を凌ぐくらいだ。ラングーンの目抜き通りを歩くと、めぼしい商店や気の利いた飲食店はどれもこれも印度人か、中国人経営、ビルマ人経営なんか一軒もなかった。
三度びっくりしたことは陸海競って専用料亭を持ち、日とともに日本の女の子が殖え、いやな言葉だがいわゆる慰安所という、お女郎屋が雨後の筍のようにニョキニョキ出来てゆくことだった。
そのお職は、なんといっても陸軍の星の旦那方が御専用の粋香園にとどめをさす。こいつがラングーンに進出したことについてはこんなことが、まことしやかにいわれていた。
粋香園というのはかっての軍都久留米の料理屋で、例の割腹自殺をした杉山元帥が久留米の師団長時代にごひいきにしていた家だとかで、大の客筋の師団はなくなる。統制統制でにっちもさっちもゆかなくなって、廃業のご挨拶におやじが元帥邸に伺候したところまあ少し待て、俺が、いい口をさがしてやるということになった。それからまもなく戦争がはじまる、すぐ上京せよということで、お前ラングーンに行けということになったのだと。ありそうなことだ。
それはともかくとして、ラングーン一流のクラブをいただいて、そこに陣取ったこの一隊は総勢150名になんなんとする大部隊で、芸妓、はんぎょく、はもとより女中、下働き、料理番。これまではわかるがあとが凄い。髪結いさんに三味線屋、鳴物屋、仕立てやに洗い張り屋にお医者さんまで、これが婦人科兼泌尿器科医であることはもちろんのことだ。それに青畳、座布団、屏風、障子、会席膳一式まで海路はるばる監視哨つきの御用船で、つつがなくラングーンに御着到になったのだ。
湿気の多いビルマでは三味線も太鼓も、鼓も、こわれやすいし、御相手がお相手で、相当の破損を覚悟してのこと、暑いビルマではおべべも、汗まみれになるというので仕立屋さんや、洗い張り屋さんの配属となったもの。それでも輜重行李から、衛生隊まで引きつれての進撃ぶりは大したものだ。それだけにお値段も滅法おたかく相手にもしてくれなかったが、なにもかも留守宅送金の僕ら軍属どもには無用の長物、高根の花だった。
灯ともしごろともなれば、青、赤、黄の小旗のついたトヨダさんが門前に並んで、椰子の樹陰から粋な音じめがもれてくるという始末で、チークの床に青畳を敷きつめた宴会場では明石か絽縮緬の単衣かなにかをお召しになった久留米芸者のお座付きからはじまってあとは、例によって例の放歌乱舞が日ごと夜ごとの盛宴に明け暮れていた。
S奴姐さんはA参謀、M丸さんはY隊という具合で、僕ら軍属や民間人はとても姐さん方に拝謁を得るのは難事中の難事だった。安い方の食堂であやしげなおすしの皮剥ぎをやりながら、何のことはない下手なラジオを聞きながら一杯やっているようなもので、奥座敷からさかんにきこえる嬌声に指をくわえ、膝を抱えて、「馬鹿にしてやがる! 戦地だぞ」 なんて、はかない正義感に鬱憤をもらしながらビルマ女のお酌で防腐剤入りの日本酒でテーブルをたたいてトラになるのがせいぜいだった。
(以下略)
http://kurohune.hp.infoseek.co.jp/Burma/imparl/huhai.html
(注:「星の旦那」というのは,日本帝国陸軍将官のこと)
「大東亜戦争史を語る会」
http://kurohune.hp.infoseek.co.jp/index.html
これは メッセージ 173689 (pyu_pyu_kitakaze さん)への返信です.
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