やはり朝日か<占領期の会見詳細(ややおふ
投稿者: kazuma0020 投稿日時: 2002/08/05 12:48 投稿番号: [145824 / 177456]
■昭和天皇とマッカーサー元帥、占領期の会見詳細が判明
通訳が克明に手記
戦後の占領期に、昭和天皇と連合国軍総司令部(GHQ)の最高司令官が頻繁に行った会見について、通訳を務めた外交官が克明に書き残した手記が見つかった。講和交渉や独立後の日本の安全保障、朝鮮戦争の情勢など、高度に政治的な内容が詳細に語られていた。これまで会見内容は、ごく一部しか明らかになっておらず、戦後史の空白を埋める貴重な史料だ。
外交官の故・松井明(まついあきら)氏が1980年ごろ書き残した「天皇の通訳」の写しを、朝日新聞が入手した。400字詰め原稿用紙で246枚にわたる。
松井氏は全11回の天皇・マッカーサー会見のうち第8〜第11回と、マッカーサー後任のリッジウェーとの会見全7回の通訳を担当。自ら通訳を務めた会見の大半を一問一答形式で克明に記した。
●共産主義に脅威
49年11月の第9回会見録で、天皇は共産主義の脅威を強調。「ソ連による共産主義思想の浸透と朝鮮に対する侵略等がありますと国民が甚だしく動揺するが如(ごと)き事態となることをおそれます」と、朝鮮戦争を予見するかのような発言をしていた。
これに対してマッカーサー元帥は「米国としては空白状態に置かれた日本を侵略に任せておくわけにはいきません」と発言。「数年間過渡的な措置として英米軍の駐屯が必要」との見方を示した。
元帥の立場はその後も数カ月間揺れるが、この会見で初めて、「講和後の米軍駐留」という安全保障の根幹に触れる構想を天皇に伝えていた点が注目される。
日本の防衛をめぐっては47年5月6日の第4回会見直後に「元帥は天皇に対して米国は日本の防衛を保障する旨を確言した」とAP通信が打電。しかし、元帥はこれを全面否定し、通訳を務めた奥村勝蔵氏は内容を外部に漏らしたとして解任される事件が起きていた。
この会見については奥村氏の記録が前半部分だけ明らかになっていた。そこには日本の防衛に関する具体的な発言はなく、後半部分に記されているのではとの見方があった。だが松井氏は奥村氏の記録の後半部分についても転記。そこでも日本の防衛について確約していなかったことが分かった。
●朝鮮の戦況質問
マッカーサー元帥が米大統領に罷免された後の51年4月の最後の会見で、天皇は、極東国際軍事裁判(東京裁判)に触れ「戦争裁判に対して貴司令官が執られた態度につき、この機会に謝意を表したい」と語っていた。
これに対し元帥は「私は戦争裁判の構想に当初から疑問を持っておりました」と語り、「ワシントンから天皇裁判について意見を求められましたが、もちろん反対致しました」などと述べ、裁判を求めた英国やソ連を「間違い」だと主張した結果、天皇が不訴追になった経過を明らかにした。
朝鮮戦争さなかの51年5月に始まるリッジウェー会見で天皇は「(国連軍の)士気は」「制空権は」など一貫して戦況について質問。「仮に(共産側が)大攻勢に転じた場合、米軍は原子兵器を使用されるお考えはあるか?」とも尋ねていた。
リッジウェー司令官は「原子兵器の使用の権限は米国大統領にしかない。野戦軍司令官としては何も申し上げられない」と答えながらも、地図を前に戦況を説明した。
講和条約調印直前の51年8月の会見で同司令官は、日本が主権を回復したら国防上の責任を果たす必要がある、と指摘。天皇は「もちろん国が独立した以上、その防衛を考えるのは当然の責務。問題はいつの時点でいかなる形で実行するかということ」と述べた。続けて「日本の旧来の軍国主義の復活を阻止しなければならない」とし、「それにはまず軍人の訓練と優秀な幹部の養成だ」との考えを示していた。
◆会見は計18回
昭和天皇・マッカーサー会見は45年9月〜51年4月、リッジウェー中将(のち大将)との会見は翌年5月まで行われた。いずれも内容は秘密にされたが、マッカーサー会見第1回全文と第4回の前段については、作家の児島襄氏(故人)が通訳の記録を雑誌や著書に公表。第3回記録も国会図書館に保管されているのが見つかった。松井氏は死去の直前、会見内容のごく一部を産経新聞94年1月6日付朝刊で語っていたが、全容を示す手記は今回初めて明らかになった。
◆松井明氏の略歴
08年パリ生まれ。東大法学部卒。31年外務省入省。調査局長などを経て49年7月から53年3月まで昭和天皇の通訳。その間、吉田茂首相秘書官としてサンフランシスコ講和会議に随行。スウェーデン大使、国連大使、フランス大使などを歴任した。94年4月、86歳で死去。清浦奎吾内閣で外相を務めた松井慶四郎氏の長男。
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通訳が克明に手記
戦後の占領期に、昭和天皇と連合国軍総司令部(GHQ)の最高司令官が頻繁に行った会見について、通訳を務めた外交官が克明に書き残した手記が見つかった。講和交渉や独立後の日本の安全保障、朝鮮戦争の情勢など、高度に政治的な内容が詳細に語られていた。これまで会見内容は、ごく一部しか明らかになっておらず、戦後史の空白を埋める貴重な史料だ。
外交官の故・松井明(まついあきら)氏が1980年ごろ書き残した「天皇の通訳」の写しを、朝日新聞が入手した。400字詰め原稿用紙で246枚にわたる。
松井氏は全11回の天皇・マッカーサー会見のうち第8〜第11回と、マッカーサー後任のリッジウェーとの会見全7回の通訳を担当。自ら通訳を務めた会見の大半を一問一答形式で克明に記した。
●共産主義に脅威
49年11月の第9回会見録で、天皇は共産主義の脅威を強調。「ソ連による共産主義思想の浸透と朝鮮に対する侵略等がありますと国民が甚だしく動揺するが如(ごと)き事態となることをおそれます」と、朝鮮戦争を予見するかのような発言をしていた。
これに対してマッカーサー元帥は「米国としては空白状態に置かれた日本を侵略に任せておくわけにはいきません」と発言。「数年間過渡的な措置として英米軍の駐屯が必要」との見方を示した。
元帥の立場はその後も数カ月間揺れるが、この会見で初めて、「講和後の米軍駐留」という安全保障の根幹に触れる構想を天皇に伝えていた点が注目される。
日本の防衛をめぐっては47年5月6日の第4回会見直後に「元帥は天皇に対して米国は日本の防衛を保障する旨を確言した」とAP通信が打電。しかし、元帥はこれを全面否定し、通訳を務めた奥村勝蔵氏は内容を外部に漏らしたとして解任される事件が起きていた。
この会見については奥村氏の記録が前半部分だけ明らかになっていた。そこには日本の防衛に関する具体的な発言はなく、後半部分に記されているのではとの見方があった。だが松井氏は奥村氏の記録の後半部分についても転記。そこでも日本の防衛について確約していなかったことが分かった。
●朝鮮の戦況質問
マッカーサー元帥が米大統領に罷免された後の51年4月の最後の会見で、天皇は、極東国際軍事裁判(東京裁判)に触れ「戦争裁判に対して貴司令官が執られた態度につき、この機会に謝意を表したい」と語っていた。
これに対し元帥は「私は戦争裁判の構想に当初から疑問を持っておりました」と語り、「ワシントンから天皇裁判について意見を求められましたが、もちろん反対致しました」などと述べ、裁判を求めた英国やソ連を「間違い」だと主張した結果、天皇が不訴追になった経過を明らかにした。
朝鮮戦争さなかの51年5月に始まるリッジウェー会見で天皇は「(国連軍の)士気は」「制空権は」など一貫して戦況について質問。「仮に(共産側が)大攻勢に転じた場合、米軍は原子兵器を使用されるお考えはあるか?」とも尋ねていた。
リッジウェー司令官は「原子兵器の使用の権限は米国大統領にしかない。野戦軍司令官としては何も申し上げられない」と答えながらも、地図を前に戦況を説明した。
講和条約調印直前の51年8月の会見で同司令官は、日本が主権を回復したら国防上の責任を果たす必要がある、と指摘。天皇は「もちろん国が独立した以上、その防衛を考えるのは当然の責務。問題はいつの時点でいかなる形で実行するかということ」と述べた。続けて「日本の旧来の軍国主義の復活を阻止しなければならない」とし、「それにはまず軍人の訓練と優秀な幹部の養成だ」との考えを示していた。
◆会見は計18回
昭和天皇・マッカーサー会見は45年9月〜51年4月、リッジウェー中将(のち大将)との会見は翌年5月まで行われた。いずれも内容は秘密にされたが、マッカーサー会見第1回全文と第4回の前段については、作家の児島襄氏(故人)が通訳の記録を雑誌や著書に公表。第3回記録も国会図書館に保管されているのが見つかった。松井氏は死去の直前、会見内容のごく一部を産経新聞94年1月6日付朝刊で語っていたが、全容を示す手記は今回初めて明らかになった。
◆松井明氏の略歴
08年パリ生まれ。東大法学部卒。31年外務省入省。調査局長などを経て49年7月から53年3月まで昭和天皇の通訳。その間、吉田茂首相秘書官としてサンフランシスコ講和会議に随行。スウェーデン大使、国連大使、フランス大使などを歴任した。94年4月、86歳で死去。清浦奎吾内閣で外相を務めた松井慶四郎氏の長男。
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これは メッセージ 1 (messages_admin さん)への返信です.
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