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come_on_I さんへ

投稿者: light_cavalryman 投稿日時: 2002/07/07 07:23 投稿番号: [144837 / 177456]
あなたについて感心することの一つは、年齢を隠さないことです。その年齢に嘘がなければ、典型的な“団塊の世代”ですね。1968年という年は、特別のご感情のある年だったのではないでしょうか? 以下のような映画が上映されるそうです。ご感想は?





68年の若者撮った「にっぽん零年」初公開

  68年当時の若者を撮ったドキュメンタリー「にっぽん零年」が、6日から初めて一般公開される。「キューポラのある街」の浦山桐郎、「八月の濡(ぬ)れた砂」の藤田敏八ら4監督が共同制作することになったものの意見が対立し、会社も中止を命じたが、ひそかに撮影、編集されたという「幻の作品」だ。東京・渋谷のユーロスペースを皮切りに全国上映される。

  映画を企画したのは多くの名監督をデビューさせた大塚和(かの)プロデューサー。

  当時、日活で「私が棄てた女」を撮影中だった浦山監督が、「実際の若者を追いたい」と持ちかけ、藤田敏八(当時は繁矢)、河辺和夫、斎藤光正の3監督にも声をかけた。

  藤田監督は学生運動の活動家に密着し、河辺監督は新宿のフーテンや自衛隊員を撮影した。浦山監督は自転車旅行をする仙台市の工員を追いかけ、斎藤監督は大阪でデパートの店員を取材した。

  しかし、1カ月ほどで撮影は暗礁に乗り上げた。

  理由は、「藤田監督担当分の政治色が強まったことに浦山監督らが反発した」「藤田監督らが4人別々のオムニバス構成を主張した」など、さまざまに伝えられているが、真相は定かではない。大塚さんと浦山、藤田、河辺の3監督は世を去り、斎藤監督も「降板した作品。一切話したくない」と口を閉ざす。

  ただ、斎藤監督の助監督を務めた岡田裕さん(64)は「藤田監督が、どうしても撮影対象の学生で1本の映画にしたいと頑張るものだから、まとめ役のはずの浦山監督が勝手にやれよとすねちゃった」と証言する。

  学生運動が激化する当時の社会情勢の中、日活も社会的影響を恐れ、制作中止を決めたが、大塚プロデューサーの一存で撮影は続けられた。

  浦山、斎藤監督の撮影分は入っていないが、68年10月の新宿騒乱、69年1月の東大安田講堂落城も収め、69年に作品は完成した。当時の世相を知る貴重な映像で、映倫も通った。だが、日活は経営の混乱期で、71年にはロマンポルノに路線変更したため、上映する機会を逸したという。


  藤田監督分を撮影したカメラマンの大津幸四郎さん(68)は「撮影隊は監督以下5人の少人数だが、よく飲む人たちで、ほとんど二日酔いで撮影していたような気がする」と話す。(18:07)

http://www.asahi.com/culture/update/0705/003.html
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