kisimenjpさんへ
投稿者: nuketusetus 投稿日時: 2002/04/19 08:16 投稿番号: [140571 / 177456]
>ローマ帝国とユダヤが戦ったとは初めて知りました。
中東に住むユダヤ人と、イタリアを発祥の地とするローマ人の最初の接触は、
共和制ローマの武将ポンペイウスが東方に遠征した紀元前63年、セレウコス朝
のシリアを滅亡させダマスカスに入城したポンペイウスの元を、内紛していた
ユダヤの片方の有力者が調停を求めるために訪れました。ポンペイウスは
ユダヤの政教一致の政体を見直すよう命令しましたが、これに保守派のユダヤ
人が反発、結局、ポンペイウスはエルサレムを武力で制圧します。それ以後、
パレスチナの地はローマ人のシリア属州総督の支配下、すなわちローマの勢力
圏内となったのです。
その後、いくつかの歴史的変遷はあったにせよ、長きに渡って彼らは独自の
自治をローマ帝国から認められました。ユダヤ長老による(あるいは世俗的
ユダヤ王家による)自治、安息日(金曜日)の休業、死刑執行を除くユダヤ法に
よる裁判などです。また兵士や公職に就くことを求められることもありませんでした。
兵士や公職に就くためには皇帝への忠誠宣誓が要求されましたが、ユダヤの神
以外に忠誠を捧げることが許されないユダヤ教徒には不可能であったからです。
とはいえ開明的で融和的であったごく一部のユダヤ教徒にはローマ軍団を志願し
ローマの市民権を得る(=ローマ法に従う)ことを選択する者もいたようです。
しかし、一貫してローマがユダヤに認めなかったのは、彼らの神殿が神の名に
おいてユダヤ人を統治する、すなわち神権政治でした。ローマ人はローマ法の
始祖らしく、神の名による政体というものを全く理解できなかったと言います。
しかし多くのユダヤ人にとっての悲願は政教一致の神権体制によるユダヤ国家の
樹立にありました。ここに、ローマ人とユダヤ人の相容れない争点が存在します。
また文明的にも、多神教徒で他民族との融合を恐れず、属州民にも条件付きながら
自らの市民権(=国籍)を開放し、ついには属州出身の皇帝まで抱くようになる
ローマ人に対して、一神教徒で閉鎖的、他民族と同化することを徹底的に拒んだ
ユダヤ人は、そりの合わなかった組み合わせと言うよりありません。
結局、何度かの反乱としばらくの平穏が続いた後、紀元131年に救世主を名乗り
ローマ支配の打破を叫んだバール・コクバを指導者とする蜂起が紀元134年に
鎮圧されると、時のローマ皇帝ハドリアヌスは、エルサレムからのユダヤ人の
全面的な追放を命令します。これ以後、エルサレムへの帰還は世界中に散った
ユダヤ人の悲願となります。
注意すべきは、ユダヤ人の離散(ディアスポラ)は、ハドリアヌスに命令される
以前から広く自主的に行われ、ユダヤ人のコミュニティは地中海世界全体に既に
分布していたということです。ユダヤ人はギリシャ人と並んで当時の商業・金融の
中心であり、人と物の集まる都市には必ずユダヤ人のコミュニティが存在しました。
既にローマ世界全体に散らばっていたこれらユダヤ人コミュニティについては、
この時点でもこれ以後も何らの弾圧も行われていません。ユダヤ人に命じられた
ことは、エルサレムからの追放だけでした。
またユダヤ人がローマの圧政に苦しみ反抗したというのも、やや短絡的な見方で
しょう。ローマ人と文明的に近いギリシャ人などはともかくとして、全く異なる
文明圏に属するアフリカ、ガリア、ブリタニア、小アジアの属州民で、これほど
徹底的にローマとの融合を拒否し続けた民族はユダヤ人以外にはいません。
そしてユダヤ人がこれら他の属州の民に比べ強く搾取されていたという事実も
ありません。むしろ、ユダヤ人のみが許された特権があったというべきでしょう。
確かにローマが彼らを支配していなければ彼らが反抗することもなかった。しかし、
他の民族はそれぞれの独自性を保ちながらローマ帝国の一部を担った(それが
故にローマ帝国は人類史上唯一の普遍帝国と言われる)のに、ユダヤ人だけが
これほど特殊な道程を歩んだということには、学ぶべきことはまだあるように
思います。
>今より複雑ではなく、しかも気高い歴史が楽しめそうで。
ドストエフスキー(私は読んだことありませんが)に比べれば塩野七生では
いかにも役不足に感じますが(笑)。
中東に住むユダヤ人と、イタリアを発祥の地とするローマ人の最初の接触は、
共和制ローマの武将ポンペイウスが東方に遠征した紀元前63年、セレウコス朝
のシリアを滅亡させダマスカスに入城したポンペイウスの元を、内紛していた
ユダヤの片方の有力者が調停を求めるために訪れました。ポンペイウスは
ユダヤの政教一致の政体を見直すよう命令しましたが、これに保守派のユダヤ
人が反発、結局、ポンペイウスはエルサレムを武力で制圧します。それ以後、
パレスチナの地はローマ人のシリア属州総督の支配下、すなわちローマの勢力
圏内となったのです。
その後、いくつかの歴史的変遷はあったにせよ、長きに渡って彼らは独自の
自治をローマ帝国から認められました。ユダヤ長老による(あるいは世俗的
ユダヤ王家による)自治、安息日(金曜日)の休業、死刑執行を除くユダヤ法に
よる裁判などです。また兵士や公職に就くことを求められることもありませんでした。
兵士や公職に就くためには皇帝への忠誠宣誓が要求されましたが、ユダヤの神
以外に忠誠を捧げることが許されないユダヤ教徒には不可能であったからです。
とはいえ開明的で融和的であったごく一部のユダヤ教徒にはローマ軍団を志願し
ローマの市民権を得る(=ローマ法に従う)ことを選択する者もいたようです。
しかし、一貫してローマがユダヤに認めなかったのは、彼らの神殿が神の名に
おいてユダヤ人を統治する、すなわち神権政治でした。ローマ人はローマ法の
始祖らしく、神の名による政体というものを全く理解できなかったと言います。
しかし多くのユダヤ人にとっての悲願は政教一致の神権体制によるユダヤ国家の
樹立にありました。ここに、ローマ人とユダヤ人の相容れない争点が存在します。
また文明的にも、多神教徒で他民族との融合を恐れず、属州民にも条件付きながら
自らの市民権(=国籍)を開放し、ついには属州出身の皇帝まで抱くようになる
ローマ人に対して、一神教徒で閉鎖的、他民族と同化することを徹底的に拒んだ
ユダヤ人は、そりの合わなかった組み合わせと言うよりありません。
結局、何度かの反乱としばらくの平穏が続いた後、紀元131年に救世主を名乗り
ローマ支配の打破を叫んだバール・コクバを指導者とする蜂起が紀元134年に
鎮圧されると、時のローマ皇帝ハドリアヌスは、エルサレムからのユダヤ人の
全面的な追放を命令します。これ以後、エルサレムへの帰還は世界中に散った
ユダヤ人の悲願となります。
注意すべきは、ユダヤ人の離散(ディアスポラ)は、ハドリアヌスに命令される
以前から広く自主的に行われ、ユダヤ人のコミュニティは地中海世界全体に既に
分布していたということです。ユダヤ人はギリシャ人と並んで当時の商業・金融の
中心であり、人と物の集まる都市には必ずユダヤ人のコミュニティが存在しました。
既にローマ世界全体に散らばっていたこれらユダヤ人コミュニティについては、
この時点でもこれ以後も何らの弾圧も行われていません。ユダヤ人に命じられた
ことは、エルサレムからの追放だけでした。
またユダヤ人がローマの圧政に苦しみ反抗したというのも、やや短絡的な見方で
しょう。ローマ人と文明的に近いギリシャ人などはともかくとして、全く異なる
文明圏に属するアフリカ、ガリア、ブリタニア、小アジアの属州民で、これほど
徹底的にローマとの融合を拒否し続けた民族はユダヤ人以外にはいません。
そしてユダヤ人がこれら他の属州の民に比べ強く搾取されていたという事実も
ありません。むしろ、ユダヤ人のみが許された特権があったというべきでしょう。
確かにローマが彼らを支配していなければ彼らが反抗することもなかった。しかし、
他の民族はそれぞれの独自性を保ちながらローマ帝国の一部を担った(それが
故にローマ帝国は人類史上唯一の普遍帝国と言われる)のに、ユダヤ人だけが
これほど特殊な道程を歩んだということには、学ぶべきことはまだあるように
思います。
>今より複雑ではなく、しかも気高い歴史が楽しめそうで。
ドストエフスキー(私は読んだことありませんが)に比べれば塩野七生では
いかにも役不足に感じますが(笑)。
これは メッセージ 140554 (kisimenjp さん)への返信です.
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