wai_nekoyanenさんこと
投稿者: txh13 投稿日時: 2002/02/17 11:18 投稿番号: [135652 / 177456]
cosmos_probeさん。私たちの議論も「無限」に続くようなのでひとまず以下の返答で打ち切りたいと思います。思いつくままに記します。あまりまとまりがありませんがあしからず。
>私が「背後にある」と表現したのがまずかったようです。私が考えているものは、我々の体の中にもビンラディンの頭の中にも、ばい菌の中にも、鉱物の中にもあるものですが、我々はそれらの一兆分の一さえもわかっていないと考えています。
またポランニーの「暗黙知」を想起。関係ないかもしれませんが。
>ならば、究極の神を考えて、「ではその神を創ったものは何か」といったジレンマに陥ることもないわけです。そのような問いは明らかに実数概念的な「無限」の問いなのですから。
数学(無限論、集合論)はよくわかりませんが、いわゆる実無限より可能無限のほうが気持ちとしては相性があいます。上記ではそのようなことをおっしゃっているのではありませんか。<実数概念的な「無限」の問い>とは実無限的な問いのことではありませんか。神を可能無限としてとらえれば、その神を創ったものは誰・何かという問いはなくなるわけですから。可能無限は、これも素人かんがえですが、自然(しぜん、ではなく、じねん)の概念に近いような気がします。
無限論や宇宙論(ビッグバン説等)は、興味はありますがずぶの素人なのでそれが得意なインド人の(文明文化の中から生まれたという)仏教にお任せしたいと思います。
次元の数学的峻別(二元的思考?)ということと、ナーガールジュナ(龍樹)の中論(二元的思考の脱構築)とどう関係するのかなと思ったりしています。メビウスの環は三次元空間に視覚化できます(だから「向こう側」と「こちら側」が同一次元にあるように見える)が、クラインの瓶はできないでしょう。これもたとえにすぎませんが、次元(たとえば部分と全体)の相違をクラインの瓶の「内」と「外」の相違のようなものとしてとらえています。まずいたとえかもしれません。
>我々が生きている宇宙はこの光の中の煙のようなものではないかと思えたのでした。
そうして、おそらくこの宇宙の本質なるものはそれを眺めて楽しんでいる。( #131444、1月21日)
これを読んで、13,4世紀ドイツのキリスト教神秘主義者マイスター・エックハルトの言葉「私が神を見る眼は神が私を見る眼だ」を想起しました。超越と内在という「異次元」間の関係もクラインの瓶の「外」と「内」の関係のようなものかと思っております。
そもそも私たちの議論は、cosmos_probe さんの「仏教について学びたいと思います。」(#130238)から始まったものと記憶しています。言い忘れたかもしれませんが、私は仏教は生かじりです。自分勝手な解釈をしているにすぎません。機会があったら本を読んだりよく知っている人の話を聴くことをおすすめします。
>私が「背後にある」と表現したのがまずかったようです。私が考えているものは、我々の体の中にもビンラディンの頭の中にも、ばい菌の中にも、鉱物の中にもあるものですが、我々はそれらの一兆分の一さえもわかっていないと考えています。
またポランニーの「暗黙知」を想起。関係ないかもしれませんが。
>ならば、究極の神を考えて、「ではその神を創ったものは何か」といったジレンマに陥ることもないわけです。そのような問いは明らかに実数概念的な「無限」の問いなのですから。
数学(無限論、集合論)はよくわかりませんが、いわゆる実無限より可能無限のほうが気持ちとしては相性があいます。上記ではそのようなことをおっしゃっているのではありませんか。<実数概念的な「無限」の問い>とは実無限的な問いのことではありませんか。神を可能無限としてとらえれば、その神を創ったものは誰・何かという問いはなくなるわけですから。可能無限は、これも素人かんがえですが、自然(しぜん、ではなく、じねん)の概念に近いような気がします。
無限論や宇宙論(ビッグバン説等)は、興味はありますがずぶの素人なのでそれが得意なインド人の(文明文化の中から生まれたという)仏教にお任せしたいと思います。
次元の数学的峻別(二元的思考?)ということと、ナーガールジュナ(龍樹)の中論(二元的思考の脱構築)とどう関係するのかなと思ったりしています。メビウスの環は三次元空間に視覚化できます(だから「向こう側」と「こちら側」が同一次元にあるように見える)が、クラインの瓶はできないでしょう。これもたとえにすぎませんが、次元(たとえば部分と全体)の相違をクラインの瓶の「内」と「外」の相違のようなものとしてとらえています。まずいたとえかもしれません。
>我々が生きている宇宙はこの光の中の煙のようなものではないかと思えたのでした。
そうして、おそらくこの宇宙の本質なるものはそれを眺めて楽しんでいる。( #131444、1月21日)
これを読んで、13,4世紀ドイツのキリスト教神秘主義者マイスター・エックハルトの言葉「私が神を見る眼は神が私を見る眼だ」を想起しました。超越と内在という「異次元」間の関係もクラインの瓶の「外」と「内」の関係のようなものかと思っております。
そもそも私たちの議論は、cosmos_probe さんの「仏教について学びたいと思います。」(#130238)から始まったものと記憶しています。言い忘れたかもしれませんが、私は仏教は生かじりです。自分勝手な解釈をしているにすぎません。機会があったら本を読んだりよく知っている人の話を聴くことをおすすめします。
これは メッセージ 134957 (wai_nekoyanen さん)への返信です.
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