>仏教と、、(kuouasku_hihannさんへ)
投稿者: txh13 投稿日時: 2002/01/13 12:16 投稿番号: [130218 / 177456]
><主張>具体化したとたんに本物ではなくなるんでしょう?具体化するためには概念による構築が必要ですから仏教的には「概念にとらわれる」ことになるんでしょう。
そうですよ。だから、仏教的には世界は一種の仮想現実だって言ったでしょう。偽物に対する本物はない。といって世界は偽物でもない。では、偽物と本物を足して2で割ったものかとういうとそうでもない。「一種の」といったのはそういう意味。(辺見 庸氏はマジで本物追求しているから偽物臭くなっちゃう。)
>具体化するためには概念による構築が必要ですから仏教的には「概念にとらわれる」ことになるんでしょう。
「思わじと思うもものを思うなり、思わじとだに思わずや君」てなことになるわけですね。「言う者は知らず、知る者は言わず。しかるに何故老子五千言?」も同じことですね。これは、偽物・本物のパラドックスと同じこと。
>私なりに禅のようなものに興味をもったことはありますが、確固たる倫理的なもの・論理的なものは何もでてきませんでした。
常識的な意味で「確固たる倫理的なもの・論理的なもの」がでてきたら仏教ではないと思います。だからといって、仏教に「確固たる倫理的なもの・論理的なもの」がないと思ったら大間違い。(これについては、またの機会に触れます。)
>人と人との関係の規定(一種の概念化)を最初から拒否しているし、「命題A」か「命題Aでない」かのどちらかしか認めない厳然とした論理を構築する立場をとっていないからです。
概念化について言えば、月を指す指、向こう岸へ渡るための筏としての概念化の重要性、必要性は仏教でも認めているのでは?たとえば膨大な経典や注釈書をご覧あれ。
Aか非Aかですか。アリストテレスの矛盾律、排中律ですね。しかしそれだけが「厳然」とした論理なんでしょうか。「Aは非A、ゆえにAなり(AはAではない。だからAだ。)」これも立派な論理でしょう。
>すなわち何が現実であるかについてのある人たちの意見を、肯定も否定もしない方がよいようです。
う〜ん、でも
>人と人との関係の規定(一種の概念化)を最初から拒否しているし、「命題A」か「命題Aでない」かのどちらかしか認めない厳然とした論理を構築する立場をとっていないからです。
と言ってますよね。これって、「何が現実であるかについてのある人たちの意見を」肯定していることを示していませんか。古くはプラトン、アリストテレス。そこから連綿と続く西洋形而上学者の二元論的現実観を。
まあ、小難しいことはさておいて、「全米テロ」の原因についてちょっと思いをめぐらして見て下さい。ブッシュの言い分とビンラディンの言い分。イスラエルの言い分とアラブの言い分。歴史的なパースペクティブも考慮した場合、どちらが正しいと思いますか。「「命題A」か「命題Aでない」かのどちらかしか認めない厳然とした論理を構築する立場」から見て。
「全米テロ」の(真の)原因はなんだったんでしょうか。だれに(最終的な)責任があるのでしょうか。
>境地によって「何でもアリです」。それが宗教一般の特徴でもあるんですけど。
そうかもしれませんけど、仏教は宗教なんですか?繰り返しますが、私の理解する仏教は宗教じゃないんですけど。仏教を宗教とよぶのに躊躇を覚える人間は私だけじゃないと思いますよ。「私に従ってはいけない、法に従え」とか「犀の角のように独り行け」と言ったのは仏陀だそうですが、法というのは理知のことだと私は解釈しています。私の理解する限り仏教は全然「何でもアリ」じゃないんですね。たとえば因果の法は、「肱外に曲がらず」と言っていますよ。これを「柳は緑、花は紅」とも言いますけど。
そうですよ。だから、仏教的には世界は一種の仮想現実だって言ったでしょう。偽物に対する本物はない。といって世界は偽物でもない。では、偽物と本物を足して2で割ったものかとういうとそうでもない。「一種の」といったのはそういう意味。(辺見 庸氏はマジで本物追求しているから偽物臭くなっちゃう。)
>具体化するためには概念による構築が必要ですから仏教的には「概念にとらわれる」ことになるんでしょう。
「思わじと思うもものを思うなり、思わじとだに思わずや君」てなことになるわけですね。「言う者は知らず、知る者は言わず。しかるに何故老子五千言?」も同じことですね。これは、偽物・本物のパラドックスと同じこと。
>私なりに禅のようなものに興味をもったことはありますが、確固たる倫理的なもの・論理的なものは何もでてきませんでした。
常識的な意味で「確固たる倫理的なもの・論理的なもの」がでてきたら仏教ではないと思います。だからといって、仏教に「確固たる倫理的なもの・論理的なもの」がないと思ったら大間違い。(これについては、またの機会に触れます。)
>人と人との関係の規定(一種の概念化)を最初から拒否しているし、「命題A」か「命題Aでない」かのどちらかしか認めない厳然とした論理を構築する立場をとっていないからです。
概念化について言えば、月を指す指、向こう岸へ渡るための筏としての概念化の重要性、必要性は仏教でも認めているのでは?たとえば膨大な経典や注釈書をご覧あれ。
Aか非Aかですか。アリストテレスの矛盾律、排中律ですね。しかしそれだけが「厳然」とした論理なんでしょうか。「Aは非A、ゆえにAなり(AはAではない。だからAだ。)」これも立派な論理でしょう。
>すなわち何が現実であるかについてのある人たちの意見を、肯定も否定もしない方がよいようです。
う〜ん、でも
>人と人との関係の規定(一種の概念化)を最初から拒否しているし、「命題A」か「命題Aでない」かのどちらかしか認めない厳然とした論理を構築する立場をとっていないからです。
と言ってますよね。これって、「何が現実であるかについてのある人たちの意見を」肯定していることを示していませんか。古くはプラトン、アリストテレス。そこから連綿と続く西洋形而上学者の二元論的現実観を。
まあ、小難しいことはさておいて、「全米テロ」の原因についてちょっと思いをめぐらして見て下さい。ブッシュの言い分とビンラディンの言い分。イスラエルの言い分とアラブの言い分。歴史的なパースペクティブも考慮した場合、どちらが正しいと思いますか。「「命題A」か「命題Aでない」かのどちらかしか認めない厳然とした論理を構築する立場」から見て。
「全米テロ」の(真の)原因はなんだったんでしょうか。だれに(最終的な)責任があるのでしょうか。
>境地によって「何でもアリです」。それが宗教一般の特徴でもあるんですけど。
そうかもしれませんけど、仏教は宗教なんですか?繰り返しますが、私の理解する仏教は宗教じゃないんですけど。仏教を宗教とよぶのに躊躇を覚える人間は私だけじゃないと思いますよ。「私に従ってはいけない、法に従え」とか「犀の角のように独り行け」と言ったのは仏陀だそうですが、法というのは理知のことだと私は解釈しています。私の理解する限り仏教は全然「何でもアリ」じゃないんですね。たとえば因果の法は、「肱外に曲がらず」と言っていますよ。これを「柳は緑、花は紅」とも言いますけど。
これは メッセージ 130088 (kuouasku_hihann さん)への返信です.
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