これは戦争ではない?その二
投稿者: txh13 投稿日時: 2002/01/11 11:42 投稿番号: [129889 / 177456]
岡野守也「唯識の心理学」(青土社)からの引用、つづき。
人類は、何千年、何万年、それどころかたぶん数百万年前、森林の木からサバンナのステップに下り立って、人類として歩み始めたころからずっと殺し合いを続けているようだが、こうした愚かしいことがどこから起こってくるかというと、それ自体は善でも悪でもない生命情報や本能にではなく、その上に育ってくる深層の自我意識、生命の流れを見て、実体的な自我があると思ってしまうこのマナ識に問題があるのだ。
だから、人間の理性の発達が人類に平和をもたらすという、近代の合理主義・ヒューマニズムの期待が、第一次、第二次大戦によって根本的に裏切られたのは、当然といえば当然といえよう。マルクス主義の理想がスターリニズムによって裏切られのは、当たり前なのだ。どんなに立派な理念・イデオロギーも、簡単にエゴイズムの口実にされてしまうし、どんなに立派な制度を作っても、それを動かす人間がエゴイストなら、腐敗する。(94ページ)(そして人間というのは慈善事業などに熱心に携わる連中も含めて、というよりそのような連中こそ、根本的にエゴイストなのだ。txh13のコメント。)
悪いことをする時にマナ識が働いているというのは、容易に理解できるが、唯識は、いいことをする時にも、<我>があるという点を指摘する。ほんとうに真心から、しかし結局、<私>がいいことをするのだ。私たちの行う善はほとんどすべてそうである。
たとえば、ほんとうに真心から、一所懸命にアフリカのために働く。ところが、誰も認めてくれない、それどころか「バカみたい」とかいわれる。その上、一所懸命やっているのに、誤解されて現地の人に殴られたりする。そうすると、「私、何のためにこんなことしてるのかしら」ということになったりする。たいていそうなるのではないだろうか。
<私>という想いがあってやっているから、いいことをやっていてもどこか見返りが欲しいという気持ちがある。それは、物質的見返りとはかぎらない。精神的見返りのほうが、ある意味では大きいのだ。(中略)そのためには、人間、金も労力も何も惜しくない。だから人間は、すばらしいことをやる。学問を必死になってやることもあれば、人助けを一所懸命にやることもある。ときにはお国のためや、人類のために死ぬ人さえいる。精神的な見返りのためには、人間は肉体的な生命を投げ出すこともあるのである。
ところが、結局は<オレ>が大切な証拠に、「オレはお国のために生きた」と思っている人に、「あなたのやったことは、お国のためでもなんでもない。だまされただけだよ」というと、思わずカッとするだろう。「アフリカ?くだらないから、よしたら」といわれたら、頭に来るのだ。そういうふうに、無意識に反応する<我>があってやっている善なのだ。(中略)
ふつうは、生きがいや意味を追求することはいいことだと考えるだろう。しかし、生きがいや意味というのは、ほとんど<マナ識>の問題なのだ。精神的な見返りが欲しいということは、結局<自分>」のためにやっているわけで、不純である。もし、<私>というものがなければ、意味などないし、いらないのだ。
よく考えてみると、いのちというものは意味を超えている。意味があっていのちがあるのではない。いのちがあって、そのなかに、たまたま人間といういのちの一種類があり、そして人間が、いわば勝手に「あれには意味がある」「これには意味がない」とレッテルを貼っているだけではないか。
もちろん私たちは人間だから、相対的には意味を求めていい。むしろ、求めるべきである。けれども、意味よりももっと深い世界がある。いのちは意味を超えている。だから、生きがいや意味よりも大事なものがあるのだ。
(中略)
ほんとうの私というのは、マナ識が捉えた私が私なのではなく、このアーラヤ識の奥底、さらにはアーラヤ識の底が抜けた無限の空にまで広がっている、この宇宙・空が私だから、それでいいのだ。(中略)
ところが、マナ識は恐ろしく根深い。<我>があるという思いは、意識ではなく無意識の世界にひじょうに強く凝り固まっていて、人生観を確立したくらいのことでは、なくならないのだ。
そして、この恐るべきこだわりを解きほぐさないかぎり、個人としても、清々しく生きることはできないし、人間全体としても、純粋な善、というより善悪を超えた善の世界を実現できないであろう。マナ識を超えないかぎり、いかなるユートピア運動も、改良運動も、革命運動も、みな挫折し続けるであろう。(96−99ページ)
人類は、何千年、何万年、それどころかたぶん数百万年前、森林の木からサバンナのステップに下り立って、人類として歩み始めたころからずっと殺し合いを続けているようだが、こうした愚かしいことがどこから起こってくるかというと、それ自体は善でも悪でもない生命情報や本能にではなく、その上に育ってくる深層の自我意識、生命の流れを見て、実体的な自我があると思ってしまうこのマナ識に問題があるのだ。
だから、人間の理性の発達が人類に平和をもたらすという、近代の合理主義・ヒューマニズムの期待が、第一次、第二次大戦によって根本的に裏切られたのは、当然といえば当然といえよう。マルクス主義の理想がスターリニズムによって裏切られのは、当たり前なのだ。どんなに立派な理念・イデオロギーも、簡単にエゴイズムの口実にされてしまうし、どんなに立派な制度を作っても、それを動かす人間がエゴイストなら、腐敗する。(94ページ)(そして人間というのは慈善事業などに熱心に携わる連中も含めて、というよりそのような連中こそ、根本的にエゴイストなのだ。txh13のコメント。)
悪いことをする時にマナ識が働いているというのは、容易に理解できるが、唯識は、いいことをする時にも、<我>があるという点を指摘する。ほんとうに真心から、しかし結局、<私>がいいことをするのだ。私たちの行う善はほとんどすべてそうである。
たとえば、ほんとうに真心から、一所懸命にアフリカのために働く。ところが、誰も認めてくれない、それどころか「バカみたい」とかいわれる。その上、一所懸命やっているのに、誤解されて現地の人に殴られたりする。そうすると、「私、何のためにこんなことしてるのかしら」ということになったりする。たいていそうなるのではないだろうか。
<私>という想いがあってやっているから、いいことをやっていてもどこか見返りが欲しいという気持ちがある。それは、物質的見返りとはかぎらない。精神的見返りのほうが、ある意味では大きいのだ。(中略)そのためには、人間、金も労力も何も惜しくない。だから人間は、すばらしいことをやる。学問を必死になってやることもあれば、人助けを一所懸命にやることもある。ときにはお国のためや、人類のために死ぬ人さえいる。精神的な見返りのためには、人間は肉体的な生命を投げ出すこともあるのである。
ところが、結局は<オレ>が大切な証拠に、「オレはお国のために生きた」と思っている人に、「あなたのやったことは、お国のためでもなんでもない。だまされただけだよ」というと、思わずカッとするだろう。「アフリカ?くだらないから、よしたら」といわれたら、頭に来るのだ。そういうふうに、無意識に反応する<我>があってやっている善なのだ。(中略)
ふつうは、生きがいや意味を追求することはいいことだと考えるだろう。しかし、生きがいや意味というのは、ほとんど<マナ識>の問題なのだ。精神的な見返りが欲しいということは、結局<自分>」のためにやっているわけで、不純である。もし、<私>というものがなければ、意味などないし、いらないのだ。
よく考えてみると、いのちというものは意味を超えている。意味があっていのちがあるのではない。いのちがあって、そのなかに、たまたま人間といういのちの一種類があり、そして人間が、いわば勝手に「あれには意味がある」「これには意味がない」とレッテルを貼っているだけではないか。
もちろん私たちは人間だから、相対的には意味を求めていい。むしろ、求めるべきである。けれども、意味よりももっと深い世界がある。いのちは意味を超えている。だから、生きがいや意味よりも大事なものがあるのだ。
(中略)
ほんとうの私というのは、マナ識が捉えた私が私なのではなく、このアーラヤ識の奥底、さらにはアーラヤ識の底が抜けた無限の空にまで広がっている、この宇宙・空が私だから、それでいいのだ。(中略)
ところが、マナ識は恐ろしく根深い。<我>があるという思いは、意識ではなく無意識の世界にひじょうに強く凝り固まっていて、人生観を確立したくらいのことでは、なくならないのだ。
そして、この恐るべきこだわりを解きほぐさないかぎり、個人としても、清々しく生きることはできないし、人間全体としても、純粋な善、というより善悪を超えた善の世界を実現できないであろう。マナ識を超えないかぎり、いかなるユートピア運動も、改良運動も、革命運動も、みな挫折し続けるであろう。(96−99ページ)
これは メッセージ 1 (messages_admin さん)への返信です.
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