もし、家族の命が脅かされたら
投稿者: jjiiiijj 投稿日時: 2001/11/08 00:29 投稿番号: [113393 / 177456]
カミカゼを生んだ要因として消されたらしいお話し
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平氏は再び勢いを盛り返して京都を取り戻そうと、摂津の福原に引きかえしてきました。そこで頼朝は、さらに範頼・義経にいひつけてこれを討たせようとしました。二人は道を分けて進み、範頼は生田森から、義経は一ノ谷から、各々福原に向かいましたが義経が鵯越えから敵の後に出て、不意に攻めたてたので、平氏の軍勢はたちまち敗北し、宗盛は天皇をいだいて船で讃岐の屋島に逃げました。
その時その船に乗り遅れた若武者が一人、それが敦盛でした。
船に乗ろうとして馬に乗ったまま海に入っていく敦盛を、いの一番に駆けつけた義経の部下である武将・熊谷次郎直実が、扇をあげて『オォーイッ!』と呼び戻しました。敦盛は、ここで逃げるのは卑怯だからと、わざわざ戻ってくる。これはまさに後世の武士道の発露といえるでしょう。家名を辱めないために正々堂々と立ち向かうわけです。もちろん勝算あってのことでなく、負けを覚悟の勝負であるわけです。
互いに組み合って挌闘するが、貴族同然の暮らしをしてきた敦盛と、東国の猛々しい老練な武士の熊谷とでは結果は目に見えています。あっという間に敦盛は熊谷に組み伏せられてしまいます。ところが熊谷が改めて敦盛の顔を見ると、わずか十五、六歳の若武者です。自分の息子と同じくらいの年ごろで、思わずひるんでしまいます。熊谷は一度は敦盛を逃がしてしまおうと考えます。しかし源氏方の武者たちが次々と迫って来た為、味方の手前もあってそれもできない。熊谷は泣く泣く敦盛の首を落とすこととなり『かならず死後の菩堤を弔いますから』と言うのだが、敦盛はすっかり覚悟が出来ており、潔く、『早く首をとれ』と急かすのです。熊谷は涙にくれながら敦盛の首を落とすのだが、そこで死体をひっくりかえしてみると、笛が胸元からころがり落ちてきました。
そういえば昨晩、どこからともなく笛の音が聞こえていたのを思い出すのでした。この戦地にあっても風雅の心を忘れないとは、東国の荒武者とは出来が違う、と熊谷はしみじみと感慨にふけるのでありました。
その後、熊谷は敦盛の遺体をその父親のもとに送り届けるのですが、それに添えた手紙で、『この君と勝負を決しようとしたとき、怨敵というような思いはなくなり、武芸の勇みも消え、できればお守りしようと思いましたが、大勢の味方がやってきてしまいました。そこでしかたなく首を討ったのだが、悲しいことです。この悪縁を変えることができるなら、今度は同じ極楽に生まれたいと思っています。今後、この若者の菩堤をねんごろに弔うことを約束します。』と訴えました。
それに対して返事が返ってきます。『敦盛の遺体と遺品は受け取りました。花の都を落ちてきてから、思い返すことは何もありません。盛んな者が衰えるのは無常の世のならい、会った者と必ず別れなければならないのはこの汚れた世界のならいです。敦盛と別れてから数日、消息すらわからなかったので、せめて行方だけでも知りたいと思っていたら、この知らせ。遺体とはいえ姿を見ることができたのはせめてもの幸いです』
このあと、熊谷は世俗を離れ、出家し、死ぬまで敦盛を弔ったと云われます。『人間五十年、化天の内をくらぶれば、夢まぼろしの如くなり。一度生を享け、滅せぬものありべきか』は、この熊谷の出家にあたっての心境を謡ったものだと云われます。
敦盛は源平合戦の犠牲者でした。それだけではなく、近代になっての『敦盛抹殺』の悲劇はまさに日本人すべての悲劇と言えるでしょう。
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平氏は再び勢いを盛り返して京都を取り戻そうと、摂津の福原に引きかえしてきました。そこで頼朝は、さらに範頼・義経にいひつけてこれを討たせようとしました。二人は道を分けて進み、範頼は生田森から、義経は一ノ谷から、各々福原に向かいましたが義経が鵯越えから敵の後に出て、不意に攻めたてたので、平氏の軍勢はたちまち敗北し、宗盛は天皇をいだいて船で讃岐の屋島に逃げました。
その時その船に乗り遅れた若武者が一人、それが敦盛でした。
船に乗ろうとして馬に乗ったまま海に入っていく敦盛を、いの一番に駆けつけた義経の部下である武将・熊谷次郎直実が、扇をあげて『オォーイッ!』と呼び戻しました。敦盛は、ここで逃げるのは卑怯だからと、わざわざ戻ってくる。これはまさに後世の武士道の発露といえるでしょう。家名を辱めないために正々堂々と立ち向かうわけです。もちろん勝算あってのことでなく、負けを覚悟の勝負であるわけです。
互いに組み合って挌闘するが、貴族同然の暮らしをしてきた敦盛と、東国の猛々しい老練な武士の熊谷とでは結果は目に見えています。あっという間に敦盛は熊谷に組み伏せられてしまいます。ところが熊谷が改めて敦盛の顔を見ると、わずか十五、六歳の若武者です。自分の息子と同じくらいの年ごろで、思わずひるんでしまいます。熊谷は一度は敦盛を逃がしてしまおうと考えます。しかし源氏方の武者たちが次々と迫って来た為、味方の手前もあってそれもできない。熊谷は泣く泣く敦盛の首を落とすこととなり『かならず死後の菩堤を弔いますから』と言うのだが、敦盛はすっかり覚悟が出来ており、潔く、『早く首をとれ』と急かすのです。熊谷は涙にくれながら敦盛の首を落とすのだが、そこで死体をひっくりかえしてみると、笛が胸元からころがり落ちてきました。
そういえば昨晩、どこからともなく笛の音が聞こえていたのを思い出すのでした。この戦地にあっても風雅の心を忘れないとは、東国の荒武者とは出来が違う、と熊谷はしみじみと感慨にふけるのでありました。
その後、熊谷は敦盛の遺体をその父親のもとに送り届けるのですが、それに添えた手紙で、『この君と勝負を決しようとしたとき、怨敵というような思いはなくなり、武芸の勇みも消え、できればお守りしようと思いましたが、大勢の味方がやってきてしまいました。そこでしかたなく首を討ったのだが、悲しいことです。この悪縁を変えることができるなら、今度は同じ極楽に生まれたいと思っています。今後、この若者の菩堤をねんごろに弔うことを約束します。』と訴えました。
それに対して返事が返ってきます。『敦盛の遺体と遺品は受け取りました。花の都を落ちてきてから、思い返すことは何もありません。盛んな者が衰えるのは無常の世のならい、会った者と必ず別れなければならないのはこの汚れた世界のならいです。敦盛と別れてから数日、消息すらわからなかったので、せめて行方だけでも知りたいと思っていたら、この知らせ。遺体とはいえ姿を見ることができたのはせめてもの幸いです』
このあと、熊谷は世俗を離れ、出家し、死ぬまで敦盛を弔ったと云われます。『人間五十年、化天の内をくらぶれば、夢まぼろしの如くなり。一度生を享け、滅せぬものありべきか』は、この熊谷の出家にあたっての心境を謡ったものだと云われます。
敦盛は源平合戦の犠牲者でした。それだけではなく、近代になっての『敦盛抹殺』の悲劇はまさに日本人すべての悲劇と言えるでしょう。
これは メッセージ 113389 (burapi0811 さん)への返信です.
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