>非合法 >hal1004さん
投稿者: chao_zoo 投稿日時: 2001/10/31 21:51 投稿番号: [109738 / 177456]
おっしゃっていることの中に僕が反対する部分はほとんどありません。
僕は「合法的な手段が許されていない場合、弱者サイドの主張は非合法の形をとらざるをえない」と、いわば当たり前のことを述べたかっただけです。おっしゃる通り、暴力以外にも選択できる手段はあり、そしてもちろん、暴力は安易に選択してはならないことも確かです。
まずは一点、僕が安易に暴力を認める立場を取る者ではないことはご理解ください。僕はこの場で一貫してアメリカのアフガニスタン攻撃に反対し、また同時に9-11事件を「非道なテロ行為」として否定する立場を取っております。
ただその…これは告白に近くなりますが、「暴力」というものが孕み持つ逆説性は、僕が思春期以来ずっと引きずっている思想的テーマだったりするのです。最初は、歴史を学べば学ぶほどに見せ付けられざるをえない膨大な命と血の蕩尽、これに圧倒されるような絶望感でした。そして徐々に、「暴力の否定が暴力に立脚する」という逆説性にも気付いていきました。
この論点に深入りしようとすると大変なのですが、一つだけ単純な例を挙げると「法と権力」があります。
「人を殺してはいけない」という法があり、それが遵守されるのは「殺せば処罰する」という権力が担保にあるからです。権力が科す刑罰は、罪科に応じて段階的に重くなっていきます。そしてその最後には「死刑」がきます。
「従わねば、殺す」…これが権力というものの究極の核にある言葉です。ここから僕は、具体的な個々の権力とは「それぞれの段階において希釈され、間接化され、緩和された暴力である」と考えています。
安定した社会では、こうした暴力はあまりあからさまには現れません。しかし社会が不安定になっていくにつれて、この暴力は顕在化し、その苛烈さも増していくでしょう。
殺してはいけない、殴ってはいけない、利害の対立は物理的な力の強弱によらず理非に照らして調停されるべし…これが法の目指す社会状態です。言い換えれば暴力の否定です。しかしこの状態の「維持」には暴力が作用しているのです。ある場合はあからさまに、ある場合は隠然と。
そして「維持」ばかりでなく、「法状態の建設」にも、多くの場合暴力が伴います。法を妥当させる権力主体は、自分以外の暴力主体を否定する必要があるからです。多くの国の建国過程に暴力が伴っているのはこのためです。
「革命」という名の暴力もまた、これに類するものと言えましょう。そしてこの「革命」なる歴史用語の内実はと見れば、それは「成功し、勝利したテロ」ということができるでしょう。
前の書き込みでも触れた「抵抗権」の考えとも合わせて、「テロの一律否定は難しい」と考えるのは上記のような認識からです。
でも、このような僕の考えは過去の歴史の現実に縛られすぎているのかもしれません。21世紀も迎えたことです。こうした枠組み自体が古いのかも。
むしろ「新しい」ものが得られれば幸いだと思っています。それで…
念のため申し沿えますが、一部の愚かな報復戦争賛成派に対する場合とは違って、hal1004さんを論破しようとかそういうつもりで言葉を返しているわけではありません。むしろ僕は、上記のような考え方が否定されるならその方が望ましいと考えています。
僕は「合法的な手段が許されていない場合、弱者サイドの主張は非合法の形をとらざるをえない」と、いわば当たり前のことを述べたかっただけです。おっしゃる通り、暴力以外にも選択できる手段はあり、そしてもちろん、暴力は安易に選択してはならないことも確かです。
まずは一点、僕が安易に暴力を認める立場を取る者ではないことはご理解ください。僕はこの場で一貫してアメリカのアフガニスタン攻撃に反対し、また同時に9-11事件を「非道なテロ行為」として否定する立場を取っております。
ただその…これは告白に近くなりますが、「暴力」というものが孕み持つ逆説性は、僕が思春期以来ずっと引きずっている思想的テーマだったりするのです。最初は、歴史を学べば学ぶほどに見せ付けられざるをえない膨大な命と血の蕩尽、これに圧倒されるような絶望感でした。そして徐々に、「暴力の否定が暴力に立脚する」という逆説性にも気付いていきました。
この論点に深入りしようとすると大変なのですが、一つだけ単純な例を挙げると「法と権力」があります。
「人を殺してはいけない」という法があり、それが遵守されるのは「殺せば処罰する」という権力が担保にあるからです。権力が科す刑罰は、罪科に応じて段階的に重くなっていきます。そしてその最後には「死刑」がきます。
「従わねば、殺す」…これが権力というものの究極の核にある言葉です。ここから僕は、具体的な個々の権力とは「それぞれの段階において希釈され、間接化され、緩和された暴力である」と考えています。
安定した社会では、こうした暴力はあまりあからさまには現れません。しかし社会が不安定になっていくにつれて、この暴力は顕在化し、その苛烈さも増していくでしょう。
殺してはいけない、殴ってはいけない、利害の対立は物理的な力の強弱によらず理非に照らして調停されるべし…これが法の目指す社会状態です。言い換えれば暴力の否定です。しかしこの状態の「維持」には暴力が作用しているのです。ある場合はあからさまに、ある場合は隠然と。
そして「維持」ばかりでなく、「法状態の建設」にも、多くの場合暴力が伴います。法を妥当させる権力主体は、自分以外の暴力主体を否定する必要があるからです。多くの国の建国過程に暴力が伴っているのはこのためです。
「革命」という名の暴力もまた、これに類するものと言えましょう。そしてこの「革命」なる歴史用語の内実はと見れば、それは「成功し、勝利したテロ」ということができるでしょう。
前の書き込みでも触れた「抵抗権」の考えとも合わせて、「テロの一律否定は難しい」と考えるのは上記のような認識からです。
でも、このような僕の考えは過去の歴史の現実に縛られすぎているのかもしれません。21世紀も迎えたことです。こうした枠組み自体が古いのかも。
むしろ「新しい」ものが得られれば幸いだと思っています。それで…
念のため申し沿えますが、一部の愚かな報復戦争賛成派に対する場合とは違って、hal1004さんを論破しようとかそういうつもりで言葉を返しているわけではありません。むしろ僕は、上記のような考え方が否定されるならその方が望ましいと考えています。
これは メッセージ 109671 (hal1004 さん)への返信です.
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