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台湾のインフラ -後藤新平

投稿者: fukagawatohei 投稿日時: 2010/07/15 17:23 投稿番号: [47 / 205]
児玉源太郎、後藤新平、新渡戸稲造■

明治31(1898)年、日本の台湾統治は、まだ3年目であり、あ
ちこちに反抗勢力が残り、治安の確立も、産業の発展も立ち遅れ
ていた。

ここで第4代総督として任命されたのが、後に日露戦争
でも活躍した児玉源太郎である。児玉は、後藤新平(後の東京市
長)を民政長官に起用した。

後藤はもともと医師であり、社会衛生を重視した。アヘンに高
率の税をかけ、吸引者を徐々に減らすと共に、その税収を衛生改
善に当てた。当初16万9千人もいたアヘン吸引者は、50年後
の日本敗戦時には皆無となっていた。

また、台湾は「瘴癘(しょうれい、風土病)の地」とも呼ばれ、
台湾平定時の日本軍戦死者164名に対し、病死者が実に4,642
名という有様だった。

後藤は悪疫予防のために、上下水道を完備し、主要道路は舗装
して、深い側溝を作り、汚水雨水の排出を速やかにした。これは
当時の日本本土でも行われていなかった。

伝染病を抑えるために、台湾医学校を設立して、ここから多く
の台湾人医師が育った。またほとんど都市の形をなしていなかっ
た台北で、大都市計画を実行し、整然とした清潔な市街を作り上
げた。

児玉と後藤が台湾農業振興のために、三顧の礼で迎えたのが、
日本で最初の農学博士・新渡戸稲造である。新渡戸は、半年かけ
て台湾全土を巡り、製糖産業に目をつけた。そして品種改良、耕
作方法、加工法の改善に取り組んだ。

この努力が実り、1900年に3万トンだった産糖は、1940年には
160万トンとなり、台湾は世界有数の生産地となった。

児玉は、後藤、新渡戸を全面的にバックアップするかたわら、
各地を精力的に巡視して、80歳以上の老人男女を食事に招待す
る(饗老会)など、民心把握に努めた。日露戦争中は、満洲軍総
参謀長となりながらも、台湾総督の職位を離れなかった。

  児玉の死後、江ノ島に神社を作ろうという議が起こったが、予
算11万円に対し、集まったのはわずか3千円であった。このこ
とが台湾に伝わると、残りの金額はわずか2週間で集まった。台
湾人民がいかに児玉を敬愛していたかが窺われる。
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