生きてはいるが…
投稿者: abutouma 投稿日時: 2004/11/05 11:42 投稿番号: [8353 / 20008]
http://www.geocities.jp/beirutreport/index.html
死んだわけではないけども…(11月5日)
4日、EUサミットに出席するためブリュッセルに到着したばかりのルクセンブルグのユンケル首相は、アラファトの容態について何か聞いているか、と記者団に問われて、
「15分前に死亡したと聞いている」
と発言、たちまちアラファト死亡説が世界を駆け巡った。危篤説や脳死説が既に流れていたから、この発言も
「そうか、とうとう」
と、一部ではすんなり受け止められた。ガザではアラファトの回復を願う人が、西エルサレムでは逆に「テロリストの首魁」の最期を喜ぶ人々が街頭に繰り出した。
その後、ペルシー病院の軍医が、アラファトの病状はより複雑になったが、死んではいないと語り、死亡説を明確に打ち消した。
現在、現地(ベイルート、パレスチナ)時間の5日午前3時。
ラマダーン恒例のムサッハル(未明の礼拝と食事をうながすため、太鼓を叩いて町をまわる「起こし屋」)に起こされてニュースを見たが、新しい情報はなかった。
筆者(編集人)がこの記事を書いている場所は、西ベイルートの中心部、ハムラ地区のコモドール・ホテルの隣だ。
コモドール・ホテルと言えば、パレスチナ報道に関わってきた人々にとっては懐かしい場所の筈だ。
PLOとアラファトが西ベイルートに立てこもり、この町がイスラエル軍の砲弾の嵐にさらされた1982年の夏。このホテルは唯一電話回線、発電機、ファックスなどのプレスルーム機材を備えたホテルとして、世界の報道陣の拠点になった。だから当時のルポなどを読んでいると必ず名前が出てくる。記者たちはここから情報を仕入れ、せっせと本国に送信した。
包囲中、アラファトは幾度も曝殺されかけたので、決して二日連続で同じ場所で眠ることはなかったという。シャロン(当時国防相)だけでなく、コモドール・ホテルに居た記者たちも、毎日アラファトは一体どこに居るのだろう、本当に生きているのだろうか、次はどこに現れるのだろうか、とやきもきさせられたことに違いない。
アラファトは、ベイルートの前にもアンマンで同じようにヨルダン軍によって包囲され、神出鬼没して生き延びた。アラファトは生き延びたが、多くの罪のない人々が殺された。
ベイルートの次は、1983年の秋、トリポリでシリア軍(と、形式上はファタハの反乱部隊)によって包囲された。この時も多くの市民が巻き添えになった。さらに、2002年の4月、ラーマッラーの議長府で、再びシャロンの手で包囲され、議長執務室の隣まで攻め込まれた。アラファトはそれでも
「私は捕虜になるよりも、殉教者になることを選ぶ。殉教者、殉教者!」
メディアにそう語って、支持者の喝采を得た。そして包囲が解除されると、Vサインをかざして…本人のサバイバル以外に、何ひとつ勝ち得てはいないのに…外に現れた。
バリー・ルービンは最新のアラファト伝(2003年刊)を、このラーマッラー包囲戦の記述から開始し、次のようにコメントする。
「またしても、アラファトは合意を守らず危機をもたらした。またしても、アラファトは彼我の力の差を読み誤った。またしても、アラブ諸国はアラファトに声援を送るのみで救出のため微動たりともしなかった。またしても、イスラエルはアラファトを殺さなかった。またしても、米国が救出のために動いた。またしてもアラファトは無傷で切り抜けた。しかし、またしても、アラファトがこの混乱と暴力の果てにもたらしたのは、本人のサバイバルだけだった」
民衆に空虚な夢を与え続けたこの人物は、結局破壊と混乱以外に何ももたらさないまま、今その波乱に富んだ人生を閉じようとしている。
本人しか所在を知らない莫大な隠れ資金も、永遠に行方がわからなくなるのだろう。
死んだわけではないけども…(11月5日)
4日、EUサミットに出席するためブリュッセルに到着したばかりのルクセンブルグのユンケル首相は、アラファトの容態について何か聞いているか、と記者団に問われて、
「15分前に死亡したと聞いている」
と発言、たちまちアラファト死亡説が世界を駆け巡った。危篤説や脳死説が既に流れていたから、この発言も
「そうか、とうとう」
と、一部ではすんなり受け止められた。ガザではアラファトの回復を願う人が、西エルサレムでは逆に「テロリストの首魁」の最期を喜ぶ人々が街頭に繰り出した。
その後、ペルシー病院の軍医が、アラファトの病状はより複雑になったが、死んではいないと語り、死亡説を明確に打ち消した。
現在、現地(ベイルート、パレスチナ)時間の5日午前3時。
ラマダーン恒例のムサッハル(未明の礼拝と食事をうながすため、太鼓を叩いて町をまわる「起こし屋」)に起こされてニュースを見たが、新しい情報はなかった。
筆者(編集人)がこの記事を書いている場所は、西ベイルートの中心部、ハムラ地区のコモドール・ホテルの隣だ。
コモドール・ホテルと言えば、パレスチナ報道に関わってきた人々にとっては懐かしい場所の筈だ。
PLOとアラファトが西ベイルートに立てこもり、この町がイスラエル軍の砲弾の嵐にさらされた1982年の夏。このホテルは唯一電話回線、発電機、ファックスなどのプレスルーム機材を備えたホテルとして、世界の報道陣の拠点になった。だから当時のルポなどを読んでいると必ず名前が出てくる。記者たちはここから情報を仕入れ、せっせと本国に送信した。
包囲中、アラファトは幾度も曝殺されかけたので、決して二日連続で同じ場所で眠ることはなかったという。シャロン(当時国防相)だけでなく、コモドール・ホテルに居た記者たちも、毎日アラファトは一体どこに居るのだろう、本当に生きているのだろうか、次はどこに現れるのだろうか、とやきもきさせられたことに違いない。
アラファトは、ベイルートの前にもアンマンで同じようにヨルダン軍によって包囲され、神出鬼没して生き延びた。アラファトは生き延びたが、多くの罪のない人々が殺された。
ベイルートの次は、1983年の秋、トリポリでシリア軍(と、形式上はファタハの反乱部隊)によって包囲された。この時も多くの市民が巻き添えになった。さらに、2002年の4月、ラーマッラーの議長府で、再びシャロンの手で包囲され、議長執務室の隣まで攻め込まれた。アラファトはそれでも
「私は捕虜になるよりも、殉教者になることを選ぶ。殉教者、殉教者!」
メディアにそう語って、支持者の喝采を得た。そして包囲が解除されると、Vサインをかざして…本人のサバイバル以外に、何ひとつ勝ち得てはいないのに…外に現れた。
バリー・ルービンは最新のアラファト伝(2003年刊)を、このラーマッラー包囲戦の記述から開始し、次のようにコメントする。
「またしても、アラファトは合意を守らず危機をもたらした。またしても、アラファトは彼我の力の差を読み誤った。またしても、アラブ諸国はアラファトに声援を送るのみで救出のため微動たりともしなかった。またしても、イスラエルはアラファトを殺さなかった。またしても、米国が救出のために動いた。またしてもアラファトは無傷で切り抜けた。しかし、またしても、アラファトがこの混乱と暴力の果てにもたらしたのは、本人のサバイバルだけだった」
民衆に空虚な夢を与え続けたこの人物は、結局破壊と混乱以外に何ももたらさないまま、今その波乱に富んだ人生を閉じようとしている。
本人しか所在を知らない莫大な隠れ資金も、永遠に行方がわからなくなるのだろう。
これは メッセージ 1 (messages_admin さん)への返信です.
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