「第一次パレスチナ分割」に」至る過程
投稿者: sascom007 投稿日時: 2003/01/21 12:04 投稿番号: [4746 / 20008]
<1920年から始まる対立で、アラブによる、モーゼの墓事件と嘆きの壁事件以前に、ユダヤによるアラブへの攻撃はなかったのでしょうか?
また、それらの事件に関して簡単な説明をお願いできますか?>
もちろん「ナビ・ムーサー廟事件」以前にも、小競り合いのようなものは、いろいろありましたが、大きな抗争事件については聞いたことがありませんね。
1920年の「ナビ・ムーサー廟事件」(「モーゼの祭り」の日に発生)、それに引き続いて起こった「メーデー事件」は、この地域をユダヤ人の祖国建設予定地から分離し、南シリアとしてファイサル国王の統治下にすべき、との考えを持つアミーン・アル・フサイニーらの指導によるムスリムの暴動でしたが、ファイサルがフランスにより、シリア王から追放されると、フサイニーらはその考えを改め、ユダヤ人の祖国建設運動そのものを阻止する方向に方針転換し、その後1921年、1925年、1926年、1928年に反ユダヤ暴動を起こしました。
「嘆きの壁事件」は、1929年8月15日、ユダヤ人が「嘆きの壁」前広場に大挙結集したことに対抗し、翌8月16日、今度はムスリムが同様の行動を取り、互いの対立が加熱して、ついに8月23日〜29日の「ヘブロンの虐殺」に繋がっていった事件でした。
<英国はユダヤの財とアラブの戦闘力を利用して、何を企てていたのですか?>
イギリスはユダヤ人の財とアラブ人の戦闘力を利用して、「第一次世界大戦」に勝ちたいと考えていたのです。
「第一次世界大戦」で勝利を収めるためには、ヨーロッパ戦線でドイツ、オーストリア・ハンガリーを破るだけではなく、その同盟国であるオスマン・トルコを破る必要もあります。
そのためには、ユダヤ人の資金力を利用して膨大な戦費を賄い、一方ではアラブ人の戦闘力を利用してアラビア半島のオスマン・トルコ軍を撃破しようと考えたわけです。
<イギリスはトランスヨルダンになぜ、全体の80%もやってしまったのですか?>
「第一次世界大戦」中、イギリスに協力しオスマン・トルコと戦ったメッカのシャリーフのフセイン・イブン・アリーとその三人の息子達アリー、アブドラ、ファイサルは、大戦後はイギリスとの「フセイン・マクマホン協定」に従い、アラビア半島にアラブ国家の建設を始めました。
大戦中の1916年に、既にメッカを首都とするヒジャス王国国王に認定されていたフセイン・イブン・アリーと長男でその皇太子アリーは、アブドラ(次男)とファイサル(三男)にアラビア半島の他の地域を統治させたいと考えていました。
このプランに従い、まず1920年にファイサルがシリア王として即位したわけですが、「国際連盟」からシリアの統治を委任されたフランスがこれを拒否してファイサルを追放。そこでイギリスは翌年、ファイサルをイラク王として即位させました。
また、イギリスの「植民地省」大臣チャーチルは、パレスチナでユダヤ人とムスリムの対立が深まっていることを憂慮し、「ムスリム融和策」としてパレスチナ10万9000k㎡のうち、9万600k㎡を分離し、トランスヨルダンと名付け、その国王としてアブドラを認定したのです。
今日はちょっとこれから出掛ける用事がありますので、ここまでにさせてもらいます。
また、それらの事件に関して簡単な説明をお願いできますか?>
もちろん「ナビ・ムーサー廟事件」以前にも、小競り合いのようなものは、いろいろありましたが、大きな抗争事件については聞いたことがありませんね。
1920年の「ナビ・ムーサー廟事件」(「モーゼの祭り」の日に発生)、それに引き続いて起こった「メーデー事件」は、この地域をユダヤ人の祖国建設予定地から分離し、南シリアとしてファイサル国王の統治下にすべき、との考えを持つアミーン・アル・フサイニーらの指導によるムスリムの暴動でしたが、ファイサルがフランスにより、シリア王から追放されると、フサイニーらはその考えを改め、ユダヤ人の祖国建設運動そのものを阻止する方向に方針転換し、その後1921年、1925年、1926年、1928年に反ユダヤ暴動を起こしました。
「嘆きの壁事件」は、1929年8月15日、ユダヤ人が「嘆きの壁」前広場に大挙結集したことに対抗し、翌8月16日、今度はムスリムが同様の行動を取り、互いの対立が加熱して、ついに8月23日〜29日の「ヘブロンの虐殺」に繋がっていった事件でした。
<英国はユダヤの財とアラブの戦闘力を利用して、何を企てていたのですか?>
イギリスはユダヤ人の財とアラブ人の戦闘力を利用して、「第一次世界大戦」に勝ちたいと考えていたのです。
「第一次世界大戦」で勝利を収めるためには、ヨーロッパ戦線でドイツ、オーストリア・ハンガリーを破るだけではなく、その同盟国であるオスマン・トルコを破る必要もあります。
そのためには、ユダヤ人の資金力を利用して膨大な戦費を賄い、一方ではアラブ人の戦闘力を利用してアラビア半島のオスマン・トルコ軍を撃破しようと考えたわけです。
<イギリスはトランスヨルダンになぜ、全体の80%もやってしまったのですか?>
「第一次世界大戦」中、イギリスに協力しオスマン・トルコと戦ったメッカのシャリーフのフセイン・イブン・アリーとその三人の息子達アリー、アブドラ、ファイサルは、大戦後はイギリスとの「フセイン・マクマホン協定」に従い、アラビア半島にアラブ国家の建設を始めました。
大戦中の1916年に、既にメッカを首都とするヒジャス王国国王に認定されていたフセイン・イブン・アリーと長男でその皇太子アリーは、アブドラ(次男)とファイサル(三男)にアラビア半島の他の地域を統治させたいと考えていました。
このプランに従い、まず1920年にファイサルがシリア王として即位したわけですが、「国際連盟」からシリアの統治を委任されたフランスがこれを拒否してファイサルを追放。そこでイギリスは翌年、ファイサルをイラク王として即位させました。
また、イギリスの「植民地省」大臣チャーチルは、パレスチナでユダヤ人とムスリムの対立が深まっていることを憂慮し、「ムスリム融和策」としてパレスチナ10万9000k㎡のうち、9万600k㎡を分離し、トランスヨルダンと名付け、その国王としてアブドラを認定したのです。
今日はちょっとこれから出掛ける用事がありますので、ここまでにさせてもらいます。
これは メッセージ 4745 (happyskay2009 さん)への返信です.
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