スンダランドと縄文人の関係
投稿者: kirameku9umi 投稿日時: 2011/08/03 11:41 投稿番号: [69191 / 73791]
rie2377さん・・・レスを有難うございます。
実は、私は歴史より自然科学の方が得意分野なのですが、好奇心が旺盛なので考古学などの書籍もよく読んだりしています。
それで、ふと学校で教えられてきた古代史は何か変だと疑問を抱くようになり、最近の考古学研究から再度、日本の古代史を見直し始めました。
その結果、知りえたのは新旧石器時代においてはシナ文化(黄河文明)よりも、縄文文化のほうが進んでいたという事実。この事実からしても先進地日本列島の石器文化であるケツ状耳飾が、長江文化(河母渡遺跡)に影響を与えたか、もしくは河母渡遺跡が倭人の移住先だった可能性も否定できません。
(中国大陸の中でさえ黄河文明「シナ文化」より、異民族の文化であり倭と縁りのある長江文明の方が古い。シナ文化が青銅器時代から発展し始めたのは、シュメールなどの西アジアの先進文化がトルコ系の胡人などによって伝えられ始めてからのことです。倭人とシナ人の文化的逆転は、それから始まりました)
ちなみに・・・黄河文化や長江文化を文明と呼ぶのであれば、縄文文化も縄文文明と呼ぶべきですね。
>温暖化は影響が大きい、今のインドネシア辺りは
大きな大陸であり、多くの人間が暮していた
>温暖化により陸地が水没し、人々は新天地を
求めて周辺地に散らばっていった
スンダランドのことですね。
【スンダランド (Sundaland) とは、現在タイの中央を流れるチャオプラヤー川が氷河期に形成した広大な沖積平野である。現在ではタイランド湾から南シナ海へかけての海底に没しており、マレー半島東岸からインドシナ半島に接する大陸棚がそれに当たる。氷河期に、海面が100メートル程度低くなり広大な平野であった。】
以下は・・・これに関する私の過去の投稿の一部です。
現生人類・ホモサピエンスは今のヨーロッパやレバント地域(地中海沿岸)に到達するより先に、オーストラリアに殖民して壁画を描くなど進んだ石器文化を既にもっていました。
この事実を知らない人は結構いるようですが、その海岸狩猟民族のルートはアフリカの悲しみの門(バブ・エル・マンデブ海峡)を通り、アラビア半島の南の沿岸からインドの海沿いに、当時(6万5千年〜8万年前)は比較的陸続きだった今のカンボジアやインドネシア沿岸を経由して、オーストラリアに達するというものです。
人類の足跡10万年全史の著者 S・オッペンハイマーに拠れば、モンゴロイドが派生した大まかな地域は、大雑把に言って現在のミャンマーの当たりのようで、そこからモンゴロイドの南北分岐が始まったとのこと。
当時の地形と現在の地形は、かなり違いがありますが・・・約6万年前にモンゴロイドは、ベトナム・タイ・ラオス・ミヤンマー辺りからメコン川やエヤーワディ川など幾つも北に上る川伝いに北上し、揚子江の源流から下降に掛けて広がり、また一方で台湾から南西諸島を経由して日本列島にまで至り南モンゴロイドとなりました。
その一方でモンゴロイドの別派は、バングラデシュあたりから西回りに川を北上してバイカル湖を経由し、アムール川流域からシベリア全域やサハリンあるいは日本列島にまで達して、北方モンゴロイドとなったようです。
(ちなみに・・・ミトコンドリアの分類から、北方モンゴロイドと南方モンゴロイドの大まかな分布の境は、いまの中国揚子江をその境界としてるようです)
S・オッペンハイマーは、現生人類がその後インド洋沿岸からオーストラリアまで広がっていった速さから判断すれば、最初の現生アジア人は、祖先が東アフリカに住むようになってから7万年のあいだに、何度もイカダや船で海や河川をわけなく渡っていただろうと言っています。
現に・・・縄文時代の遺蹟からは、ゆうに10人以上はのれて外洋を航行できる大型の丸木舟(カヌー)が出土しています。
つまり・・・旧石器時代や新石器時代は、中国大陸よりも東南アジア(スンダランド地域)の方が先に開けており、航海技術の発達した先進的地域だったのです。縄文人はその北限だったのだと思います。縄文文化と長江文化(河母渡遺跡)とスンダランドは、トライアングルの海上交通網だったと考えられます。
実は、私は歴史より自然科学の方が得意分野なのですが、好奇心が旺盛なので考古学などの書籍もよく読んだりしています。
それで、ふと学校で教えられてきた古代史は何か変だと疑問を抱くようになり、最近の考古学研究から再度、日本の古代史を見直し始めました。
その結果、知りえたのは新旧石器時代においてはシナ文化(黄河文明)よりも、縄文文化のほうが進んでいたという事実。この事実からしても先進地日本列島の石器文化であるケツ状耳飾が、長江文化(河母渡遺跡)に影響を与えたか、もしくは河母渡遺跡が倭人の移住先だった可能性も否定できません。
(中国大陸の中でさえ黄河文明「シナ文化」より、異民族の文化であり倭と縁りのある長江文明の方が古い。シナ文化が青銅器時代から発展し始めたのは、シュメールなどの西アジアの先進文化がトルコ系の胡人などによって伝えられ始めてからのことです。倭人とシナ人の文化的逆転は、それから始まりました)
ちなみに・・・黄河文化や長江文化を文明と呼ぶのであれば、縄文文化も縄文文明と呼ぶべきですね。
>温暖化は影響が大きい、今のインドネシア辺りは
大きな大陸であり、多くの人間が暮していた
>温暖化により陸地が水没し、人々は新天地を
求めて周辺地に散らばっていった
スンダランドのことですね。
【スンダランド (Sundaland) とは、現在タイの中央を流れるチャオプラヤー川が氷河期に形成した広大な沖積平野である。現在ではタイランド湾から南シナ海へかけての海底に没しており、マレー半島東岸からインドシナ半島に接する大陸棚がそれに当たる。氷河期に、海面が100メートル程度低くなり広大な平野であった。】
以下は・・・これに関する私の過去の投稿の一部です。
現生人類・ホモサピエンスは今のヨーロッパやレバント地域(地中海沿岸)に到達するより先に、オーストラリアに殖民して壁画を描くなど進んだ石器文化を既にもっていました。
この事実を知らない人は結構いるようですが、その海岸狩猟民族のルートはアフリカの悲しみの門(バブ・エル・マンデブ海峡)を通り、アラビア半島の南の沿岸からインドの海沿いに、当時(6万5千年〜8万年前)は比較的陸続きだった今のカンボジアやインドネシア沿岸を経由して、オーストラリアに達するというものです。
人類の足跡10万年全史の著者 S・オッペンハイマーに拠れば、モンゴロイドが派生した大まかな地域は、大雑把に言って現在のミャンマーの当たりのようで、そこからモンゴロイドの南北分岐が始まったとのこと。
当時の地形と現在の地形は、かなり違いがありますが・・・約6万年前にモンゴロイドは、ベトナム・タイ・ラオス・ミヤンマー辺りからメコン川やエヤーワディ川など幾つも北に上る川伝いに北上し、揚子江の源流から下降に掛けて広がり、また一方で台湾から南西諸島を経由して日本列島にまで至り南モンゴロイドとなりました。
その一方でモンゴロイドの別派は、バングラデシュあたりから西回りに川を北上してバイカル湖を経由し、アムール川流域からシベリア全域やサハリンあるいは日本列島にまで達して、北方モンゴロイドとなったようです。
(ちなみに・・・ミトコンドリアの分類から、北方モンゴロイドと南方モンゴロイドの大まかな分布の境は、いまの中国揚子江をその境界としてるようです)
S・オッペンハイマーは、現生人類がその後インド洋沿岸からオーストラリアまで広がっていった速さから判断すれば、最初の現生アジア人は、祖先が東アフリカに住むようになってから7万年のあいだに、何度もイカダや船で海や河川をわけなく渡っていただろうと言っています。
現に・・・縄文時代の遺蹟からは、ゆうに10人以上はのれて外洋を航行できる大型の丸木舟(カヌー)が出土しています。
つまり・・・旧石器時代や新石器時代は、中国大陸よりも東南アジア(スンダランド地域)の方が先に開けており、航海技術の発達した先進的地域だったのです。縄文人はその北限だったのだと思います。縄文文化と長江文化(河母渡遺跡)とスンダランドは、トライアングルの海上交通網だったと考えられます。
これは メッセージ 69164 (rie2377 さん)への返信です.