Re: 日本人にぜひ、読んでほしい本
投稿者: pokosi2000 投稿日時: 2010/07/12 21:17 投稿番号: [64507 / 73791]
>また、今日の考古学では、最近の発掘資料から、弥生時代などの大陸からの渡来人は年に2,3家族ていどでしかなく、シナ大陸や朝鮮半島から「渡来人が大挙して押し寄せてきた」というのは、遺伝子研究や発掘資料の少なかった過去のデータからの誤った認識だったと考えています。
したがって弥生人=渡来人が稲作を持ち込み、縄文人を駆逐していったとの説は誤り。実情は、朝鮮半島からのボートピープルが見たものは、500年以上も水田耕作を行い文化的にも進んだ倭人(弥生人)の社会。
稲作は直接中国大陸から日本に伝わりました。
俺がこのトピで何度も主張してきたことと基本的には同じです。
即ち教科書的歴史認識(古代の日韓関係)、通りトンスル半島から大量の渡来人が日本を征服して弥生文化が出来たのではない。
弥生時代になっても貝塚は作り続けたし、石器は縄文時代の物が使われ続けました。
縄文時代と弥生時代に文化的断絶は存在しない。
縄文以来の翡翠の勾玉文化は現在まで伝えられ日本国皇室の三種の神器の一つ。
日本の米の遺伝子が2種類しかないこと、これは米をもたらした渡来は限られたものであったことを意味する。
トンスル半島から稲作民が大量に渡来したならば、日本の米の遺伝子もトンスル半島と同じでなければならない。
事実渡来人の根拠とされる土居が浜の人骨ですら縄文文化を受け入れ抜歯のあとがあるものがある。
即ち小数の渡来人は日本の縄文文化を受け入れていた。
弥生時代に始期はこれまで通説から500年早まった。
稲作文化は九州から近畿に500年かけて伝わった。
弥生人と縄文人の人口増加が仮に3%の違いがあれば現在の日本人の遺伝子構成は説明出来る。
そして百済から文化が伝わったか全く不明。
日本に大陸風の軸組構造の建築が現れるのは710年の薬師寺から。
百済が滅びてから50年もたっている。
法隆寺は太い木材を井桁に使った乱暴な構造。
これは メッセージ 64499 (kirameku9umi さん)への返信です.
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