Re: 昨日のETV特集
投稿者: aqvv2006 投稿日時: 2009/12/05 12:11 投稿番号: [61579 / 73791]
>バカですか?
>バカですよね?
つ【鏡】
>【積極的な艦隊出撃による海上決戦を禁止】=戦闘禁止だよ!!
>海上決戦禁止=戦闘禁止!!!
えっ??
頭、大丈夫?
【決戦】と【戦闘】の意味理解しているか?
>李舜臣による水軍攻撃は成果が上がらなくなり被害が大きくなり出撃も減ることとなる(釜山浦海戦、熊川海戦、第二次唐項浦海戦、場門浦・永登浦海戦)。
海戦をしているのに??
李舜臣は、何と戦ったんだ?
『陸戦や後方輸送に従事していた脇坂安治(動員定数1500人)、九鬼嘉隆(動員定数1500人)、加藤嘉明(動員定数750人)の三大名に朝鮮水軍を討つように命じて、功名に逸った脇坂安治が7月7日に巨済島へ単独出撃。
20日程度で集めた部隊の一部が暴走して敗走。
勝手なことをしないように命令された寄せ集め部隊に、攻撃を仕掛けるも反撃されて、負けたのが李舜臣』
閑山島海戦
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E5%B1%B1%E5%B3%B6%E6%B5%B7%E6%88%A6#.E5.AE.89.E9.AA.A8.E6.B5.A6.E6.B5.B7. E6.88.A6.E3.81.AE.E7.B5.8C.E9.81.8E
一部抜粋
玉浦・泗川湾・唐浦の戦い [編集]
5月7日頃、李舜臣は91隻を率いて加徳島の玉浦に停泊する日本の輸送船団を攻撃し、26隻を撃破した。
同月29日、李舜臣は泗川湾で日本船団を攻撃し、大船12隻を焼き払った。この時舜臣も銃弾を左肩に受け負傷した。6月2日朝、李舜臣は唐浦に停泊中の来島通之・亀井茲矩率いる20余隻の船団を攻撃、通之を戦死させた[1]。
これに対処するために豊臣秀吉は6月23日付けの書状で陸戦や後方輸送に従事していた脇坂安治(動員定数1500人)、九鬼嘉隆(動員定数1500人)、加藤嘉明(動員定数750人)の三大名を招集し朝鮮水軍を討つように命じた。
閑山島海戦の経過 [編集]
6月14日に三大名は釜山浦に集結したが、功名に逸った脇坂安治は抜け駆けをして7月7日に巨済島へ単独出撃をした。
一方、二度の出撃で戦果を上げた朝鮮水軍の全羅左水使・李舜臣(24隻)は7月6日に日本水軍の動きを察知すると直ちに出撃し、慶尚右水使・元均(7隻)と全羅右水使・李億祺(25隻)の水軍と合流した。
7月8日、日本艦隊を発見した李舜臣は出撃を主張する元均を抑え、囮と潮流を使った迎撃作戦を展開した。また、この艦隊には亀船三隻が参加していたという。囮と海流に乗って出撃した脇坂艦隊は有力な朝鮮水軍の迎撃を受け大きな被害を出し、脇坂安治も窮地に陥るが、座乗船の大きさと櫂の数による機動性を生かして撤退に成功した。
李舜臣は自身の記録である「見乃梁破倭状」で日本艦隊の発見数を大船36隻・中船24隻・小船13隻、撃破数を63隻と記録している。しかし、脇坂安治への動員定数が1500人であることを考えると発見数と戦果は過大評価の可能性が高い。(翌年5月の晋州城攻撃時の脇坂軍の点呼員数は900人)
この海戦で脇坂安治は部将の脇坂左兵衛と渡辺七衛門を失い、海賊出身の真鍋左馬允は船を失って上陸後に責任感から切腹した。また脇坂艦隊の内、海戦中に船を放棄して閑山島に上陸した者が200人生還している。
>バカですよね?
つ【鏡】
>【積極的な艦隊出撃による海上決戦を禁止】=戦闘禁止だよ!!
>海上決戦禁止=戦闘禁止!!!
えっ??
頭、大丈夫?
【決戦】と【戦闘】の意味理解しているか?
>李舜臣による水軍攻撃は成果が上がらなくなり被害が大きくなり出撃も減ることとなる(釜山浦海戦、熊川海戦、第二次唐項浦海戦、場門浦・永登浦海戦)。
海戦をしているのに??
李舜臣は、何と戦ったんだ?
『陸戦や後方輸送に従事していた脇坂安治(動員定数1500人)、九鬼嘉隆(動員定数1500人)、加藤嘉明(動員定数750人)の三大名に朝鮮水軍を討つように命じて、功名に逸った脇坂安治が7月7日に巨済島へ単独出撃。
20日程度で集めた部隊の一部が暴走して敗走。
勝手なことをしないように命令された寄せ集め部隊に、攻撃を仕掛けるも反撃されて、負けたのが李舜臣』
閑山島海戦
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E5%B1%B1%E5%B3%B6%E6%B5%B7%E6%88%A6#.E5.AE.89.E9.AA.A8.E6.B5.A6.E6.B5.B7. E6.88.A6.E3.81.AE.E7.B5.8C.E9.81.8E
一部抜粋
玉浦・泗川湾・唐浦の戦い [編集]
5月7日頃、李舜臣は91隻を率いて加徳島の玉浦に停泊する日本の輸送船団を攻撃し、26隻を撃破した。
同月29日、李舜臣は泗川湾で日本船団を攻撃し、大船12隻を焼き払った。この時舜臣も銃弾を左肩に受け負傷した。6月2日朝、李舜臣は唐浦に停泊中の来島通之・亀井茲矩率いる20余隻の船団を攻撃、通之を戦死させた[1]。
これに対処するために豊臣秀吉は6月23日付けの書状で陸戦や後方輸送に従事していた脇坂安治(動員定数1500人)、九鬼嘉隆(動員定数1500人)、加藤嘉明(動員定数750人)の三大名を招集し朝鮮水軍を討つように命じた。
閑山島海戦の経過 [編集]
6月14日に三大名は釜山浦に集結したが、功名に逸った脇坂安治は抜け駆けをして7月7日に巨済島へ単独出撃をした。
一方、二度の出撃で戦果を上げた朝鮮水軍の全羅左水使・李舜臣(24隻)は7月6日に日本水軍の動きを察知すると直ちに出撃し、慶尚右水使・元均(7隻)と全羅右水使・李億祺(25隻)の水軍と合流した。
7月8日、日本艦隊を発見した李舜臣は出撃を主張する元均を抑え、囮と潮流を使った迎撃作戦を展開した。また、この艦隊には亀船三隻が参加していたという。囮と海流に乗って出撃した脇坂艦隊は有力な朝鮮水軍の迎撃を受け大きな被害を出し、脇坂安治も窮地に陥るが、座乗船の大きさと櫂の数による機動性を生かして撤退に成功した。
李舜臣は自身の記録である「見乃梁破倭状」で日本艦隊の発見数を大船36隻・中船24隻・小船13隻、撃破数を63隻と記録している。しかし、脇坂安治への動員定数が1500人であることを考えると発見数と戦果は過大評価の可能性が高い。(翌年5月の晋州城攻撃時の脇坂軍の点呼員数は900人)
この海戦で脇坂安治は部将の脇坂左兵衛と渡辺七衛門を失い、海賊出身の真鍋左馬允は船を失って上陸後に責任感から切腹した。また脇坂艦隊の内、海戦中に船を放棄して閑山島に上陸した者が200人生還している。
これは メッセージ 61576 (romsendesuga_11_11_11 さん)への返信です.