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junbanhooさん、弥生人についての記述です

投稿者: xyzhaya 投稿日時: 2006/11/06 18:14 投稿番号: [6120 / 73791]
■「弥生人」は越人である

率直に見ていこう。日本の弥生時代の始まりは中国の戦国時代にあたる。この簡単な事実からでも、「弥生人」は戦乱との関連で中国から九州に渡ってきたと推測できる。そして、海上移動ができるのは、東方の海洋民だと推測していい。すると、中国を逃げ出したのは、楚に滅ぼされた越の民が有力になる。
  少し歴史を詳細にみると傍証的な史実がある。越の勾践は、BC473に呉の夫差を破ってから、貿易の利権を狙って、山東半島の西南にあたる邪琅に遷都している。ここで半世紀の興隆の後、BC333年頃、楚に滅ぼされた。
  越人はどこへ逃げるか。山東半島の邪琅から朝鮮半島南部へは海路を経て抜けやすい。先にも触れたが、後代、秦の始皇帝がBC219年、邪琅を訪れ、この地から徐福を東方に派遣した。
  このように史実の流れを見ていくと、弥生文化を創始した弥生人の正体は越人だと考えられる。だが、越人だとする前に、もう一点、考慮すべきことがある。弥生人自身の証言だ。晋書を見れば、倭人(弥生人)たちは「自ら呉太伯の後(すえ)」と言っている。つまり、弥生人自身は、自分たちは越人ではなく呉人だと言うのだ。
  弥生人が越人なのか呉人なのかという問題は、単純に解決できる。もともと呉越は呉越同舟という故事とは逆に、王朝としては敵対しつつも、他の地域に比べると、同域の近い系統の民族だった。呉が越に滅ぼされてからは、呉人は越に吸収されたはずだ。これに対して、越を滅ぼした楚の民俗は揚子江中流に発することもあり、下流の呉越には馴染まなかったのだろう。
  まとめれば、晋書に言う倭人は、呉人から越の支配に入り、越人として邪琅に移民した人々だったということになる。
  あるいは、越人はそのままにして倭人なのかもしれない。日本の中世、水軍によって、海上に勢力を張った伊予の豪族、越智氏が「をち」と訓じられるように、「越」は「を」であり、倭人の「倭」も「を」である。越は倭の同義かもしれない。

一九九九年三月一九日ニュース報道。江南人骨日中共同調査団(山口敏・東京国立科学博物館名誉研究員が団長)は、江蘇省の墓から出土した六十体(二十八体が新石器時代、十七体が春秋戦国時代、十五体が前漢時代)の頭や太ももの骨、歯を調査。特に、歯からDNAを抽出して調査し、福岡、山口両県で出土した渡来系弥生人と縄文人の人骨と比較。結果、春秋戦国時代人と前漢時代人は弥生人と酷似。DNA分析では、江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代末)の人骨の歯から抽出したミトコンドリアDNAの持つ塩基配列の一部が、福岡県の隈西小田遺跡の人骨のDNAと一致した。

http://www.asahi-net.or.jp/~CY1N-STU/kodaishi/yayoi.htm
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