Re: 北の核実験やら・・・閑話休題
投稿者: kirameku9umi 投稿日時: 2009/06/14 17:10 投稿番号: [56839 / 73791]
>・・・ちゅう、とか、・・・・きに、
とか言ってたのを覚えてます。
女性でしたが、芯の強い人で、大人しそうな外見の割りには大酒飲みでした(さすが)。
いまはもう「ゼヨ」は殆んど使いませんね。私も日常では「腹へっチュウ」とか「面白いニャア」とまあ、県外の人が傍で聞いていればネズミと猫の会話かと思うぐらい変な語尾を使っています(笑)。
脱線ついでに言わせてもらえば、私のプチ自慢は・・・我らが殿様・長宗我部元親の長男・信親(のぶちか)です。
戸次川の戦いで、朝鮮出兵のさい明の皇帝を震え上がらせたあの勇猛果敢な島津軍を相手に、圧倒的な劣勢のなかで全員、一歩も引くことなくことごとく討ち死にした時の大将です。
徳永信一郎著「長宗我部元親」によれば、その死体の全てが、向こう傷を受けていたことから、敵の島津兵も「さすが土佐人、勇者ぞろいであった」と誉め称えたといいます。
歴史は下って幕末に坂本龍馬が長崎に渡ったときに、薩摩兵が「土佐武士こそ、我らが手本」と、戸次川合戦の土佐勢を誉めると、龍馬は大いに感動し、「われらもいつ、戦場で屍をさらすかもしれぬ。そのときには、この戸次川合戦の戦死者のように、後世に名を残したいものだ。しかし、屍を敵に調べられたとき、髷をもって動かされたら癪である。これからは、髷を頭の天辺に結わえることにするぞ」と同士たちに話し、月代をせまく剃って髷をてっぺんに結わえた。これが流行して「土佐の勤皇頭」と言われるようになったと言うことですね。
だいぶ脱線しましたが、もう直ぐ夏本番。ヨサコイ踊りも始まります。また是非高知に訪れてみて下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E4%BF%A1%E8%A6%AA
「戸次川の戦いにおいて、仙石秀久が真っ先に敗走する中、土佐勢の中備え(1000名)を率いて島津家主力と戦闘を行う。先遣隊の桑名隊(1000名)と共に圧倒的兵力差の中、善戦する。後方にいた父元親は退却出来たが、大きな兵力差・連合軍の連携のなさ・指揮官仙石秀久逃亡等で全軍が壊乱状態となり、信親を始めとする2000名の将兵は完全に包囲されてしまった。しばらくは包囲する島津勢を撃退していたが、豊臣軍の他の隊を撃破した島津諸隊が投入され、信親自身が刀を取って戦う状況となった。桑名太郎左衛門らの有力家臣が戦死する中、信親も島津勢の新納隊の鈴木内膳に討ち取られた。享年22。このとき信親は、信長から賜った左文字の銘刀を振るいながら壮烈な戦死を遂げたとされる。
この戦いの激しさは、有力土豪や一領具足などが軒並み戦死していること(重臣の全滅、7割を超える異常な戦死率)からも推測できる。島津側は信親の遺骸を返還しており、従来の合戦では考えられない程、丁重に扱われた。元来、島津家では勇猛果敢な敵将に対して敬意を惜しまない家風である事や、壊乱した豊臣軍の諸隊とは対照的に徹底抗戦した土佐勢全体への敬意も含まれていると思われる。」
女性でしたが、芯の強い人で、大人しそうな外見の割りには大酒飲みでした(さすが)。
いまはもう「ゼヨ」は殆んど使いませんね。私も日常では「腹へっチュウ」とか「面白いニャア」とまあ、県外の人が傍で聞いていればネズミと猫の会話かと思うぐらい変な語尾を使っています(笑)。
脱線ついでに言わせてもらえば、私のプチ自慢は・・・我らが殿様・長宗我部元親の長男・信親(のぶちか)です。
戸次川の戦いで、朝鮮出兵のさい明の皇帝を震え上がらせたあの勇猛果敢な島津軍を相手に、圧倒的な劣勢のなかで全員、一歩も引くことなくことごとく討ち死にした時の大将です。
徳永信一郎著「長宗我部元親」によれば、その死体の全てが、向こう傷を受けていたことから、敵の島津兵も「さすが土佐人、勇者ぞろいであった」と誉め称えたといいます。
歴史は下って幕末に坂本龍馬が長崎に渡ったときに、薩摩兵が「土佐武士こそ、我らが手本」と、戸次川合戦の土佐勢を誉めると、龍馬は大いに感動し、「われらもいつ、戦場で屍をさらすかもしれぬ。そのときには、この戸次川合戦の戦死者のように、後世に名を残したいものだ。しかし、屍を敵に調べられたとき、髷をもって動かされたら癪である。これからは、髷を頭の天辺に結わえることにするぞ」と同士たちに話し、月代をせまく剃って髷をてっぺんに結わえた。これが流行して「土佐の勤皇頭」と言われるようになったと言うことですね。
だいぶ脱線しましたが、もう直ぐ夏本番。ヨサコイ踊りも始まります。また是非高知に訪れてみて下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E4%BF%A1%E8%A6%AA
「戸次川の戦いにおいて、仙石秀久が真っ先に敗走する中、土佐勢の中備え(1000名)を率いて島津家主力と戦闘を行う。先遣隊の桑名隊(1000名)と共に圧倒的兵力差の中、善戦する。後方にいた父元親は退却出来たが、大きな兵力差・連合軍の連携のなさ・指揮官仙石秀久逃亡等で全軍が壊乱状態となり、信親を始めとする2000名の将兵は完全に包囲されてしまった。しばらくは包囲する島津勢を撃退していたが、豊臣軍の他の隊を撃破した島津諸隊が投入され、信親自身が刀を取って戦う状況となった。桑名太郎左衛門らの有力家臣が戦死する中、信親も島津勢の新納隊の鈴木内膳に討ち取られた。享年22。このとき信親は、信長から賜った左文字の銘刀を振るいながら壮烈な戦死を遂げたとされる。
この戦いの激しさは、有力土豪や一領具足などが軒並み戦死していること(重臣の全滅、7割を超える異常な戦死率)からも推測できる。島津側は信親の遺骸を返還しており、従来の合戦では考えられない程、丁重に扱われた。元来、島津家では勇猛果敢な敵将に対して敬意を惜しまない家風である事や、壊乱した豊臣軍の諸隊とは対照的に徹底抗戦した土佐勢全体への敬意も含まれていると思われる。」
これは メッセージ 56827 (run_run72 さん)への返信です.