いよいよ韓国消滅へカウントダウン!

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Re: 北の核実験やらミサイル発射実験 横

投稿者: run_run72 投稿日時: 2009/06/07 01:51 投稿番号: [56625 / 73791]
>西南戦争での死者数はほぼ互角だったのですか。

そのようですね。
正確に戦死者の氏名までわかっているのは、さすが日本、と感心します。
こんなものまであります(下の方までスクロールしてみて下さい)
http://kunisaki.blog69.fc2.com/blog-entry-38.html

友人の友人に、激戦地だった付近の旧家出身の人がいて、
柱には、西南戦争の弾の跡があるとか、
その地域では、今でも、
戦争というと第二次世界大戦ではなく、「西南戦争」を指すそうです。

行き会い玉とかいって、鉄砲の弾と弾が正面衝突したものとかまであるそうで、そりゃあもう、大変な激戦だったということです。
17日間続いたということですから。

薩軍といえば、薩摩示現流の稽古風景が写ってるTV番組を見たことがあるんですが、、
和紙で作ったグローブみたいなもので木刀を握った人(先生)に対し、
キャーッ、っていう猿声をあげてひたすら打つだけって光景で、
大変怖かったです。
で、一緒に見ていた剣道有段者に、この人たちと試合したらどう?
と聞いたら、嫌だ、怖い、といってました(笑)
探したら動画がありました。
http://www.suzaku-s.net/2007/06/jigen-ryu.html

私たちは明治のことはよくは知りません。
山田風太郎の明治物(この人らしい伝奇小説?ですが)なんかに
出てくる明治の有名人、結構知らない人が多いです。
大正末年或いは昭和初めに生まれた人と知識が全く断絶しているとことですね。

で、西南戦争

http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-seinan.html

2月21日から4日間にわたり4倍の兵力をもってした熊本城の攻撃はことごとく失敗していた。士族精鋭の薩軍にとって徴兵による官軍などは「土百姓の人形兵」であり、「只一蹴して過ぎるのみで方策を要せず」として、精強を過信するあまりひたすら力攻で臨んだ。しかし、にわかにこれを陥れることはできず、長期戦と化した。篭城は50日を数え、小倉からの援軍・第14聯隊の聯隊長心得・乃木希祐少佐は軍旗を薩摩軍に奪われるという一幕もあった。この間筑紫方面から続々南下してくる官軍に対し、薩軍は高瀬の平原に遭遇戦を展開していた。兵力は其々1万名を数え、官軍は薩軍に両翼を包囲されその司令部も蹴散らされようとしたほどであったが装備、兵站の欠陥、用兵の不手際からこの戦闘にも失敗、薩軍は西郷の末弟、西郷小兵衛を失った。

それから薩軍は菊地川南方、吉次峠から田原坂を経て山鹿に至る要線に後退の上陣地を占領、史上名高い田原坂の死闘が繰り広げられた。この要線は歴史的には加藤清正によって北方に対する熊本城防衛の第一線とされていたところであった。穏やかな火山噴出台地は段丘崖を形成し、路外にはいたるところに竹林が密生し昼なお暗く、凹道が連なり機動・展望・射撃を著しく妨げていた。3月4日から始まった田原坂の戦闘は20日まで及んだ。この間官軍は、退くを知らない積極果敢な薩軍に対し、徒に正面攻撃の正攻法のみでは勝算の見込みなし、として薩軍背後への上陸作戦を実施していた。3月19日に上陸に成功した官軍は、黒田清隆の指揮によって順調に進撃し、4月15日には熊本城を包囲していた薩軍を破って熊本に入城した。

よく奮闘した薩軍主力も遂に城東地区に後退を余儀なくされ、南方に連なる要害の地、吉次峠の近傍では副将・篠原国幹が戦死した。最大時には2万余を数えた薩軍もこの頃には8千位に減じていた。

トピズレはやめるとゼヨ君にいいながら、長いレス失礼しました。
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