いよいよ韓国消滅へカウントダウン!

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記憶にとどめておくべき近代史の事実

投稿者: ftdrjbhi 投稿日時: 2009/06/01 08:41 投稿番号: [56363 / 73791]
「昭和二十年八月二十日頃であったろうと思う。鞍山から新京守備のために北上したので新京の街は北も南もよく解らないが、たしか終戦の日から数えて四、五日たっていたと思われる頃の出来事だった。・・・・
  そんな日病院の玄関で大声で騒ぐ声にびっくりして、私は板でくくりつけた足をひきずりながら玄関に出て見て驚いた。十二、三の少女から二十ぐらいの娘が十名程タンカに乗せられて運ばれていた。それはまともに上から見ることの出来る姿ではなかった。その全員が裸で、まだ恥毛もそろわない幼い子供の恥部は紫に腫れ上がって、その原形はなかった。大腿部は血がいっぱいついている。顔をゆがめつつ声を出しているようだが聞きとれない。次の女性はモンペだけをはぎとられて下の部分は前者と同じだが、下腹部を刺されて腸が切口から血と一緒にはみ出していた。次の少女は乳房を切られて、片目を開けたままであったから死んでいるのかもしれない。次もその次も、ほとんど同じ姿である。・・・・・。一週間私はこの病院にいて毎日毎日この光景を見て、その無惨、残酷さに敗戦のみじめさを知った」(「されど、わが満州」p172〜3)

「満州や北朝鮮からの初期の脱出者は悲惨で、今も念頭を去らないいくつかのエピソードがある。北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、辛苦のすえやっと38度線近くの鉄原にたどりついた。そこで見たものは、日本人の娘達がつぎつぎにまずソ連兵に犯され、ついで朝鮮人の保安隊に引き渡されてさらに散々に辱められたうえ、虐殺されている光景であった。折角ここまで連れてはきたが、最愛の二人の娘達もまもなく同じ運命をたどるであろうことを不悩に思い、近くの林の中の松の木に経って自決させ、これはその遺髪ですといって私に見せてくれた」(「ある戦後史の序章」の中にある石田一郎の手記より西日本図書館コンサルタント協会)

葛根廟事件
ソビエト正規軍が民間の日本人避難民を攻撃し、全滅に等しい被害を与えた事件である。葛根廟はラマ教の僧院で、興安南省と竜江省の省境に近い辺境にあった。当時、葛根廟から二十五キロほど離れた興安の街とその周辺に、約四千人の日本人が住んでいた。ソ連参戦の翌日にあたる一九四五年八月十日、日本人たちは南方に向けて避難を開始した。ハ月十二日、避難の遅れた二千人が、葛根廟駅から列車で奉天に向かうため、葛根廟をめざし、隊列を組んで興安を出発した。ほとんど女性と子供であった。葛根廟が視野に入った、八月十四日午前十一時半、ソ連軍戦車隊と遭遇。突然、機銃掃射が始まり、あたりが血の海となった。生存者はわずか、約百五十人だった。女や子供ばかりの隊列を、日本軍と間違うはずはない。まぎれもない非戦闘員虐殺事件である。

麻山事件
ソ連侵攻直後の同年八月九日、満州東安省鶏寧県庁は、県内在住日本人開拓団に避難命令を発した。それを受けたハタホ開拓団約一千名は、荷馬車で牡丹江に向かった。一行は、日本の統制を離れた満州治安軍の反乱部隊とソ連戦車隊の双方の来襲を受け、「敵の手で辱められるよりは」と、婦女子四百余名が男子団員の銃によって命を絶たれた。

  そして、あの白衣の天使たちの悲劇も起こりました。
どういうわけか、我が国の進歩的といわれる人々はドイツ、東欧、そして満州、朝鮮にてのソ連軍の人道及び国際法に反する蛮行に対して非難することは無い。
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