いよいよ韓国消滅へカウントダウン!

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今も昔も、夜郎自大は変わりません。

投稿者: nomuhyon_japan 投稿日時: 2006/08/19 00:17 投稿番号: [548 / 73791]
ちょっと、ここで正しい歴史認識の一例を示しましょう。
笑えます。

江戸時代の1764年(明和元年)第11次朝鮮通信使、金仁謙が書いた記録
です。
何せ中華帝国の一員(属国)をプライドにしていた訳ですから、
日本人を馬鹿にしつつも、当時の日本の大都市の繁栄ぶりに驚いている。
くやしさが出ていますね。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

「摂津大坂(大阪)を見た時の記録
三神山の金?銀台とは、まことのこの地のことであろう。
人家が堀や軒をつらね、その賑わいの程は、わが国の鍾絽(漢城の繁華街)の万倍も上である。
北京を見たという訳官が、一行に加わっているが、かの中原の壮麗さもこの地には及ばないという。
我が国の都城の内は 東から西にいたるまで一里には及ばない
富貴な宰相らでも 100間をもつ邸を建てることは御法度 屋根を全て瓦葺にしていることに 感心しているのに 大したものよ倭人らは 1000間もある邸を建て 中でも富豪の輩は 銅を以って屋根を葺き 黄金を以って家を飾り立てている その奢侈は異常なほどだ
穢れた愚かな血を持つ 獣のような人間が 世の興亡と関わりなく ひとつの姓を伝えて来て 人民を次第に増え このように富み栄えているが 知らぬは天ばかりなり 嘆くべし恨むべしである
この国では高貴な家の婦女子が 厠へ行くときは パジを着用していないため 立ったまま排尿するという お供のものが後ろで 絹の手拭を持って立ち 寄こせと言われれば渡すとのこと 聞いて驚きあきれた次第
(朝鮮では家舎に制限があり、最高権力者の大君とその嫡子でも60間まで)
尾張名古屋を見た時の記録
山川広闊にして、人口の多さ、田地の肥沃、家々の贅沢なつくり、遠路随一といえる中原にも見あたらないであろう朝鮮の三京も大層立派であるが、この地に比べれば、寂しい限りである。
人々の容姿の優れていることも 沿路随一である 」


そして、国定韓国高等学校歴史教科書によると、貧しい日本が、
豊かな先進国である朝鮮に交易を求めてきたということだそうです。
その貧しい国の都市の壮麗さや賑わいが、朝鮮の都城の万倍という記録
とはどういうことなのでしょうかね。

「壬辰倭乱をきっかけに朝鮮と日本の外交関係は断絶していた。したがって、日本は経済的に困難に陥った。ために戦乱後成立した日本の徳川幕府は、先進文物を受け入れるために、対馬島主をとおして交渉を許可するように朝鮮に懇請した。朝鮮では日本が犯した誤りを恨みながらも、建国以来の交隣政策の原則に照らし、制限された範囲内での交渉を許した(1609年、己酉約条)。そうして富山浦に再び倭館が設置され、そこで日本人は米、木綿、人参などを求めていった。
また、日本は朝鮮を文化の先進国と考え、使節を派遣するよう要請してきた。これに対し、朝鮮では通信使を派遣したが、その一行はおよそ400余人になり、国賓として待遇を受けた。日本は通信使の一行をとおして先進学問と技術を学ぼうと懸命であった。したがって、通信使は外交使節としてだけでなく、朝鮮の先進文化を日本に伝播する役割も果たした。」
(『世界の教科書シリーズ 国定韓国高等学校歴史教科書』 明石書店 2000年)
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