Re: 日韓は仲が良かった?(゜o゜)
投稿者: pokosi2000 投稿日時: 2009/04/25 20:38 投稿番号: [54376 / 73791]
これですね、13世紀のお話だ。
いずれにせよ同時期に書かれた三国史記には新羅の王は日本から来たと書いてある。
それを無視した朝鮮マンセイの記事だ。
>今の韓国の日本海側に、新羅という国があり、ヨノラン、セオニョという夫婦が仲良く暮らしていました。
後に日本で王様と王妃様になる2人は、韓国の古い本「三国遺事」に登場します。韓国・慶尚北道の町から岩に乗り、日本のある小国(「海を渡った神様」では出雲の国)に渡ります。米や鉄作り、機織りを伝え、人々から神様として慕われました。
延烏郎(えんうろう/ヨンオラン) 細烏女(さいうじょ/セオニョ)
第八阿達羅王(=新羅王第八代 阿達羅尼師今)即位四年(=157年?)丁酉(ひのと・とり) 東海の濱に延烏郎・細烏女あり、夫婦同居す。 一(ある)日、延烏、海に歸(い)き藻を採る。 忽(たちまち)一巖あり。 【一(ある)いは一魚と云う】 負いて日本に歸す。 國人これを見て曰く、「これ非常の人なり」と。 すなわち立てて王と爲す。 【日本帝記を按ずるに、前後に新羅の人を王と爲すこと無し。 これすなわち邊邑の小王にして真の王に非ざるなり】
細烏、夫の來たらざるを恠(あや)しみ、これを尋ね歸(い)く。 夫の脱ぎし鞋を見て、またその巖に上(のぼ)る。 巖、また負いて歸すること前(さき)の如し。 その國の人、驚き訝(いぶか)しみ、奏して王に獻ず。 夫婦相い會し、立てて貴妃と爲す。
この時に新羅に日・月の光無し。 日者(=日官/日を司る天文官)奏して云いしく、「日・月の精、降りて我が國に在りしが、今は日本に去る。故に斯(かく)の恠(あや)しを致す」と。 王、使を遣わし二人を求む。 延烏、曰く、「我、この國に到るは、天の然(しか)しむるなり。今、何ぞ歸らんや。然りと雖ども朕の妃が織れる細綃有り。これを以って天を祭るべし」と。 すなわちその綃を賜う。 使人、來り奏して、その言に依りてこれを祭る。 然して後、日・月、舊(もと)の如し。 その綃を御庫に藏し國の寶と爲す。 その庫を名づけて「貴妃庫」と爲す。 祭天の所を「迎日縣」または「都祈野」と名づく。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/sangokuiji/0101_86/fr.htm
機織りなどの文化の伝播に朝鮮人は関係ない。
朝鮮半島に残された中国人が日本に渡来した。
楽浪郡、帯方郡が滅んだ後、その地に残された中国系秦族、漢族の遺民は母国へ返ることもできず、朝鮮系土着民からも圧迫されて一部は日本へやって来た。 養蚕、機織を伝えた弓月君(ゆづきのきみ)は秦氏を名乗り、文筆を伝え史部(ふひとべ)を管理した阿知使主(あちのおみ)は東漢氏(やまとのあやうじ)を名乗った。 東漢とは楽浪郡のことである。
宇宙旅行をしている人がどこかで宇宙人に遭遇した場合、彼は宇宙人に対して「私は山田です」とは言わない。 「私は地球人です。 地球から来ました」と言うだろう。 これには歴史的傍証がある。 17世紀初頭、仙台藩主伊達政宗の命を受けた支倉常長は、海を越えてヨーロッパに到着した。 いわゆる慶長遣欧使節である。 徳川幕府のキリスト教の禁教と鎖国によって、日本に帰れなくなった一行の一部はスペインに留まり、彼の地で生涯を終えた。 彼らの子孫は現在スペインに健在で、全て「ハポン」姓を名乗っている。 遥か遠くの地で見知らぬ人に会ったとき、人は名前を名乗らない、人は故郷を名乗るのだ。
応神天皇のとき百済から渡来して「論語」「千字分」を伝えた王仁(わに)は、西文氏(かわちのふみうじ)を名乗った。 西の文字の国つまり日の没する所の国、漢である。 「東漢氏」は「やまとのあやうじ」と読んだ。 「漢」は「あや」と読む。 「あや」は「文」に通じる。 つまり「漢」と「文」は同義であり、文字を表わすと同時に国を表わす。 伝えられた文字は漢字という。
継体天皇のとき百済から渡来した五経博士は、「書経」「易経」「詩経」「春秋」「礼記」を伝えた。 彼らが伝えたのは中国文化であり朝鮮文化ではない。 日本にはこの頃伝わったと考えられる言語表現が数多くある。 故事成語、四文字熟語、ことわざなどで中国起源のものは多い。 一方朝鮮起源のものは皆無である。 日本にやって来て中国文明を伝えた帰化人の多くは、楽浪、帯方に残された秦漢の遺民であった。
http://koreaunion.hp.infoseek.co.jp/
いずれにせよ同時期に書かれた三国史記には新羅の王は日本から来たと書いてある。
それを無視した朝鮮マンセイの記事だ。
>今の韓国の日本海側に、新羅という国があり、ヨノラン、セオニョという夫婦が仲良く暮らしていました。
後に日本で王様と王妃様になる2人は、韓国の古い本「三国遺事」に登場します。韓国・慶尚北道の町から岩に乗り、日本のある小国(「海を渡った神様」では出雲の国)に渡ります。米や鉄作り、機織りを伝え、人々から神様として慕われました。
延烏郎(えんうろう/ヨンオラン) 細烏女(さいうじょ/セオニョ)
第八阿達羅王(=新羅王第八代 阿達羅尼師今)即位四年(=157年?)丁酉(ひのと・とり) 東海の濱に延烏郎・細烏女あり、夫婦同居す。 一(ある)日、延烏、海に歸(い)き藻を採る。 忽(たちまち)一巖あり。 【一(ある)いは一魚と云う】 負いて日本に歸す。 國人これを見て曰く、「これ非常の人なり」と。 すなわち立てて王と爲す。 【日本帝記を按ずるに、前後に新羅の人を王と爲すこと無し。 これすなわち邊邑の小王にして真の王に非ざるなり】
細烏、夫の來たらざるを恠(あや)しみ、これを尋ね歸(い)く。 夫の脱ぎし鞋を見て、またその巖に上(のぼ)る。 巖、また負いて歸すること前(さき)の如し。 その國の人、驚き訝(いぶか)しみ、奏して王に獻ず。 夫婦相い會し、立てて貴妃と爲す。
この時に新羅に日・月の光無し。 日者(=日官/日を司る天文官)奏して云いしく、「日・月の精、降りて我が國に在りしが、今は日本に去る。故に斯(かく)の恠(あや)しを致す」と。 王、使を遣わし二人を求む。 延烏、曰く、「我、この國に到るは、天の然(しか)しむるなり。今、何ぞ歸らんや。然りと雖ども朕の妃が織れる細綃有り。これを以って天を祭るべし」と。 すなわちその綃を賜う。 使人、來り奏して、その言に依りてこれを祭る。 然して後、日・月、舊(もと)の如し。 その綃を御庫に藏し國の寶と爲す。 その庫を名づけて「貴妃庫」と爲す。 祭天の所を「迎日縣」または「都祈野」と名づく。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/sangokuiji/0101_86/fr.htm
機織りなどの文化の伝播に朝鮮人は関係ない。
朝鮮半島に残された中国人が日本に渡来した。
楽浪郡、帯方郡が滅んだ後、その地に残された中国系秦族、漢族の遺民は母国へ返ることもできず、朝鮮系土着民からも圧迫されて一部は日本へやって来た。 養蚕、機織を伝えた弓月君(ゆづきのきみ)は秦氏を名乗り、文筆を伝え史部(ふひとべ)を管理した阿知使主(あちのおみ)は東漢氏(やまとのあやうじ)を名乗った。 東漢とは楽浪郡のことである。
宇宙旅行をしている人がどこかで宇宙人に遭遇した場合、彼は宇宙人に対して「私は山田です」とは言わない。 「私は地球人です。 地球から来ました」と言うだろう。 これには歴史的傍証がある。 17世紀初頭、仙台藩主伊達政宗の命を受けた支倉常長は、海を越えてヨーロッパに到着した。 いわゆる慶長遣欧使節である。 徳川幕府のキリスト教の禁教と鎖国によって、日本に帰れなくなった一行の一部はスペインに留まり、彼の地で生涯を終えた。 彼らの子孫は現在スペインに健在で、全て「ハポン」姓を名乗っている。 遥か遠くの地で見知らぬ人に会ったとき、人は名前を名乗らない、人は故郷を名乗るのだ。
応神天皇のとき百済から渡来して「論語」「千字分」を伝えた王仁(わに)は、西文氏(かわちのふみうじ)を名乗った。 西の文字の国つまり日の没する所の国、漢である。 「東漢氏」は「やまとのあやうじ」と読んだ。 「漢」は「あや」と読む。 「あや」は「文」に通じる。 つまり「漢」と「文」は同義であり、文字を表わすと同時に国を表わす。 伝えられた文字は漢字という。
継体天皇のとき百済から渡来した五経博士は、「書経」「易経」「詩経」「春秋」「礼記」を伝えた。 彼らが伝えたのは中国文化であり朝鮮文化ではない。 日本にはこの頃伝わったと考えられる言語表現が数多くある。 故事成語、四文字熟語、ことわざなどで中国起源のものは多い。 一方朝鮮起源のものは皆無である。 日本にやって来て中国文明を伝えた帰化人の多くは、楽浪、帯方に残された秦漢の遺民であった。
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