日本刀 - 中国朝鮮刀剣とは異質
投稿者: k_g_y_007_naoko 投稿日時: 2009/03/13 14:45 投稿番号: [52043 / 73791]
投稿者:拓
>上古から湾刀の出現まで [編集]
古墳時代にはすでに鉄製の刀剣が作られていた。例えば、埼玉県の稲荷山古墳や島根県の古墳時代前期を代表する出雲の大型方墳である造山古墳からは鉄剣、大刀が出土している。稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣にはワカタケル(雄略天皇)に仕えた功績を記念して471年に作ったとの由来が115文字の漢字で刻まれている。この時代の刀剣の多くは朽損しているが、島根県安来市のかわらけ谷出土の金銅装環頭大刀は、奇跡的に優れた保存状態にあり、黄金色の柄をもち刀身さえも古代の輝きを今に伝える稀有な例として有名である。
7 - 8世紀以降の刀剣には原形を良く留めているものが多く、四天王寺の「丙子椒林剣」(へいししょうりんけん)や「七星剣」(しちせいけん)、正倉院の「金銀鈿荘唐大刀」(きんぎんでんそうのからたち)などが知られている(湾刀完成以前の直刀には「太刀」ではなく「大刀」の字をあてる)。推古天皇が「馬ならば日向の駒、太刀ならば呉のまさび」と詠んでいるように、この時代、呉(中国南東部の総称)の刀が最良とされていた。が、日本の鍛冶職人の水準も上昇してきた。正倉院では唐太刀と呼ばれる海外からの渡来品と共に、唐様太刀と呼ばれる国産の直刀も保管されている。また、平造り・切刃造りの直刀、蕨手刀(わらびてのかたな)といった国産の剣も現存している。
平安時代初期の刀剣の遺品は乏しく、作風の変遷や、いつ頃どのようにして日本独自の湾刀が形成されたかについては、学問的に十分解明されていないが、承平天慶の乱などが発生した平安時代中期以降(10世紀ころ)従来の直刀に代わって騎乗時に扱い易い刀身に反りのある蕨手刀(彎曲刀)が使用されるようになった。これは長らく苦しめられた東北との紛争で俘囚が騎乗しながら使用していた蕨手刀が影響しているとみられる。また、平造り・切刃造りに代わって、刀身の断面が長菱形である「鎬造り」(しのぎづくり)の刀剣が造られるようになったのもこの時代である。「鎬造り」は平造り・切刃造りより頑丈で斬りやすいとされている。以上の変化の過渡期にあたるのが柄が刀身と共鉄の毛抜形太刀や、鋒両刃(きっさきもろは)造りで反りのある小烏丸(こがらすまる)である(小烏丸は古伝書には大宝年間(8世紀初頭)の刀工「天国」(あまくに)の作とあるが、実際の制作は平安中期と見るのが定説となっている)。毛抜形太刀は、藤原秀郷所用と伝える伊勢神宮のものが著名である。柄に毛抜形の透かし彫りがあることからこの名がある。
太刀の時代 [編集]
平安時代後期、特に武家勢力が活発になった前九年の役や後三年の役あたりから武家の勢力が増大し、これに伴い太刀が発達し、通常これ以降の物を日本刀とする。良質な砂鉄がとれる雲伯国境地域や備前国と、政治文化の中心である山城国・大和国などに刀工の各流派が現れてきた。このころの日本刀は馬上決戦を中心に考えられた太刀が主体である。源頼光が大江山の酒呑童子を斬ったとされる「童子切」(伯耆国の安綱作、国宝)やキツネに合鎚を打たせたという伝説のある「小狐丸」(山城国の三条宗近作、第二次大戦時に焼失)などがこの時期を代表する日本刀である。「童子切」の作者である雲伯国境の安綱は古伝書には時代を9世紀初めの大同年間(806年頃)とするが、現存作品を見る限りそこまで時代は上がらず、平安中期、10世紀末頃と見るのが刀剣史では通説となっている。安綱のほか、山城(京)の三条小鍛冶宗近、古備前友成などが、現存在銘作のある最古の刀工とみなされる・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%88%80
なにか勝手なことを言っている投稿者がおりますね(笑
>上古から湾刀の出現まで [編集]
古墳時代にはすでに鉄製の刀剣が作られていた。例えば、埼玉県の稲荷山古墳や島根県の古墳時代前期を代表する出雲の大型方墳である造山古墳からは鉄剣、大刀が出土している。稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣にはワカタケル(雄略天皇)に仕えた功績を記念して471年に作ったとの由来が115文字の漢字で刻まれている。この時代の刀剣の多くは朽損しているが、島根県安来市のかわらけ谷出土の金銅装環頭大刀は、奇跡的に優れた保存状態にあり、黄金色の柄をもち刀身さえも古代の輝きを今に伝える稀有な例として有名である。
7 - 8世紀以降の刀剣には原形を良く留めているものが多く、四天王寺の「丙子椒林剣」(へいししょうりんけん)や「七星剣」(しちせいけん)、正倉院の「金銀鈿荘唐大刀」(きんぎんでんそうのからたち)などが知られている(湾刀完成以前の直刀には「太刀」ではなく「大刀」の字をあてる)。推古天皇が「馬ならば日向の駒、太刀ならば呉のまさび」と詠んでいるように、この時代、呉(中国南東部の総称)の刀が最良とされていた。が、日本の鍛冶職人の水準も上昇してきた。正倉院では唐太刀と呼ばれる海外からの渡来品と共に、唐様太刀と呼ばれる国産の直刀も保管されている。また、平造り・切刃造りの直刀、蕨手刀(わらびてのかたな)といった国産の剣も現存している。
平安時代初期の刀剣の遺品は乏しく、作風の変遷や、いつ頃どのようにして日本独自の湾刀が形成されたかについては、学問的に十分解明されていないが、承平天慶の乱などが発生した平安時代中期以降(10世紀ころ)従来の直刀に代わって騎乗時に扱い易い刀身に反りのある蕨手刀(彎曲刀)が使用されるようになった。これは長らく苦しめられた東北との紛争で俘囚が騎乗しながら使用していた蕨手刀が影響しているとみられる。また、平造り・切刃造りに代わって、刀身の断面が長菱形である「鎬造り」(しのぎづくり)の刀剣が造られるようになったのもこの時代である。「鎬造り」は平造り・切刃造りより頑丈で斬りやすいとされている。以上の変化の過渡期にあたるのが柄が刀身と共鉄の毛抜形太刀や、鋒両刃(きっさきもろは)造りで反りのある小烏丸(こがらすまる)である(小烏丸は古伝書には大宝年間(8世紀初頭)の刀工「天国」(あまくに)の作とあるが、実際の制作は平安中期と見るのが定説となっている)。毛抜形太刀は、藤原秀郷所用と伝える伊勢神宮のものが著名である。柄に毛抜形の透かし彫りがあることからこの名がある。
太刀の時代 [編集]
平安時代後期、特に武家勢力が活発になった前九年の役や後三年の役あたりから武家の勢力が増大し、これに伴い太刀が発達し、通常これ以降の物を日本刀とする。良質な砂鉄がとれる雲伯国境地域や備前国と、政治文化の中心である山城国・大和国などに刀工の各流派が現れてきた。このころの日本刀は馬上決戦を中心に考えられた太刀が主体である。源頼光が大江山の酒呑童子を斬ったとされる「童子切」(伯耆国の安綱作、国宝)やキツネに合鎚を打たせたという伝説のある「小狐丸」(山城国の三条宗近作、第二次大戦時に焼失)などがこの時期を代表する日本刀である。「童子切」の作者である雲伯国境の安綱は古伝書には時代を9世紀初めの大同年間(806年頃)とするが、現存作品を見る限りそこまで時代は上がらず、平安中期、10世紀末頃と見るのが刀剣史では通説となっている。安綱のほか、山城(京)の三条小鍛冶宗近、古備前友成などが、現存在銘作のある最古の刀工とみなされる・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%88%80
なにか勝手なことを言っている投稿者がおりますね(笑
これは メッセージ 1 (may7idaho さん)への返信です.