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Re: 古代百済との関係 1/2

投稿者: abcdganesyappa 投稿日時: 2009/02/02 18:08 投稿番号: [48561 / 73791]
>何を言ったって朝鮮史の最弱のところは、まあ、きちんと書物になった文献が13世紀に現れた『三国遺事』が初めてなのですから、其処から「百済」がどうの、「継体天皇」がどうした、を議論したって、無意味でしょうが?


はい、いくら百済時代のことを持ち出しても、現代に至る文化の継続性、民族(民度)の伝統が引き継がれていなければ、所謂チョーセンなるモノは意味がありません。

チョーセンの歴史はここが重要です。
・1231年からモンゴル側から先年の使者の遭難を詰問し降伏・臣従を促す国書が来牒し[2]、モンゴル軍の侵入が始まる。崔氏は国王を連れて1232年に都を開京から江華島に移して、3年間も徹底抗戦を試みたため、国土と国民はモンゴル人に蹂躙され、荒廃した。

・1239年にモンゴルは高麗に入朝を命じたが、高麗側はこれに応じなかった。1247年に再び蒙古軍が侵入した。この年から蒙古は継続して侵攻し、高麗は徹底的に抗戦するものの、1258年に北部の和州以北を占領され双城総管府が置かれた。結局、翌1259年に崔氏政権は打倒され、高麗はモンゴル帝国に服属し、太子(王子)を人質としてモンゴル宮廷に差し出し、高麗王族がモンゴル皇帝(カアン)の侍衛組織であるケシクの要員に加わるようになった。こうして30年近くに及ぶ高麗の抵抗は終わった。

・一方南部では、1223年に初めて倭寇の名が登場し、倭寇などが沿岸を襲い始めていたようである(新羅末期から高麗にかけて、高麗人がたびたび日本を襲っていたことから、国の安定度が逆転したと言えるかもしれない)。また、元宗のクビライ政権に降伏して接近する政策に反発した林衍らがクーデターを起こした。これを討伐するためモンゴル軍が派遣され、林衍派は三別抄らを動員して抵抗したものの敗退し、南方の珍島や耽羅(済州島)に落延びた。耽羅島の三別抄政権は鎌倉幕府に救援を求めて共同してモンゴルを撃退するよう要請したが、文永の役直前に日本派遣軍の司令官となる忻都、洪茶丘などが率いる派遣軍に鎮圧されている。
(以上、ウィッキより抜粋引用)

まー、簡単に言うとなんですな。
蛮族である当時のモンゴルのポルポトに民衆を殺戮され、文化を破壊しつくされたこと等は容易に想像がつく。
(そのような事はポルポトならずとも近代の歴史でも多くあったことだ。いわんや、何にも文化的遺産を残さなかった遊牧民族のモンゴル蛮族が隣にいた。そして徹底的に蹂躙されたチョーセン)
上述のごとく、現代のチョーセンが限りなく朝青龍と親戚であり、<`ヘ´>顔であることも納得が行く。
百済の歴史を持ち出して、チョーセンが日本と百済文化のことをあれこれ論じても何んも意味は無い。今のチョーセンは関係ないからだ。文化は断絶している。
寧ろ、「朝青龍の褌の色好みは高麗時代の衣の色から来ている。これは秘められた我がミンジョクの伝統的、文化的、心理的な遺産だ」
ぐらい述べたほうが、よっぽどもっともらしい。
                        (-。-)y-゜゜゜
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