弥生人のルーツ
投稿者: k_g_y_007_naoko 投稿日時: 2009/01/24 23:12 投稿番号: [48076 / 73791]
投稿者:大介
稲作の伝来を調べていたら、渡来系弥生人に興味をもった:
日本人
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA
>崎谷満による説明
以下、前掲崎谷の分析に依拠して説明する。最初に日本列島に到達し、後期旧石器時代を担ったのは、シベリアの狩猟民であるC3系統である。バイカル湖周辺からアムール川流域およびサハリンを経由して、最終氷期の海面低下により地続きとなっていた北海道に達した。また一部は沿海州を南下し、朝鮮半島を経由して北部九州に達した。細石刃石器を用い、ナウマンゾウを狩っていたと考えられる。
その後、一万数千年前に、大陸からD2系統が入ってきた。これが縄文人である。D2は日本だけで見られる系統であり、アイヌ人88%、沖縄人56%、本土日本人42〜56%で、朝鮮半島では0%である。近縁のD1,D3がチベットで見られる。D系統は華北で東西に分かれ、東がD2、西がD1,D3になったと考えられる。
同じ頃、経路は不明であるがインドに起源を持つC1系統が南方から入ってきた。貝文土器を用い、縄文人とは異なる文化を南九州に築いた。
O1系統は台湾が起源であり、オーストロネシア語族との関連が想定されている。台湾と近いにも関わらず、日本列島ではO1はごく少数に過ぎない。
O2a/O2b系統は長江文明の担い手だと考えられている。O2b系統が移動を開始したのは 2800年前である。長江文明の衰退に伴い、O2aおよび一部のO2bは南下し、百越と呼ばれた。残りのO2bは北上し、山東省、朝鮮半島、日本列島に達した。長江文明の稲作を持ち込んだと考えられる。
O3系統は黄河中上流を起源とし、漢民族に典型的に見られる他、周辺の諸民族にも広く見られる。歴史的にO3は一貫して拡大しており、このためにD系統およびO2系統が駆逐されたと考えられる。
日本列島の特異な点は、D2やO2bなど、大陸では敗者となった集団が、絶滅せずに混じり合って存在していることである。その他にもC1,O1,O3など多様な遺伝子集団を吸収し、保持し続けている。
一方ミトコンドリアのハプログループに注目すると、日本には世界で日本人にしか見られないM7aというグループがある[19]。これは台湾付近で発生したと考えられ、沖縄・アイヌに多く本州で少ないという特徴的な分布をしている。
渡来系弥生人そっくりの江南人骨
http://www.asukanet.gr.jp/tataki/yayoizin2.html
b)中国で弥生タイプ人骨の出現〜変化はすでに春秋時代〜
今回日中共同調査で渡来系弥生人にそっくりの江南人骨の発見も驚ききであったが、実は江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代、紀元前5〜6世紀)から、すでに渡来系弥生人に似た人骨が出土していたことはさらなる驚きであった。
日中共同調査団による5年前(199?年)の調査で、中国の新石器時代人(4000年〜5000年前)は日本の縄文人、弥生人いずれにも似ていないことが明らかになっていたが、今回(199?年)の研究で、紀元前約500年の春秋時代末期に、弥生人タイプの「春秋時代人」がすでに出現していたことが明らかになったのは、予期せぬ大きな発見であった。
中国の新石器人の形質がなぜ変化したのか?この問題には、日中共同調査団の考古学者の中国側メンバーばかりでなく、この調査に協力いただいた日本の考古学者(菅谷文則<滋賀県立大学教授>東アジア考古学専攻)も注目している。
しかも、この春秋時代人骨は骨の形質が渡来系弥生人にそっくりであると同時に歯も渡来系弥生人のように大きく、抜歯風習も弥生時代の形式と一致している。梁王城遺跡の春秋時代の2体(いずれも男性)に見られた「上顎の側切歯を左右対称に抜く」という「抜歯の形式」は、弥生時代に流行していた抜歯の形式とまったく同じものであった。これは今回の重要な発見の一つであり、今後の重要な研究課題であると、中橋教授も注目している。
今後、この梁王城遺跡一帯は渡来系弥生人の起源を探る重要な鍵となるかも知れない。
楚
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%9A_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)
大介:中国の中原地方は、春秋戦国の後、秦の始皇帝が統一している。敗者である楚人の一部が新天地・避難場所として日本に渡来したんじゃないかな?
稲作の伝来を調べていたら、渡来系弥生人に興味をもった:
日本人
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA
>崎谷満による説明
以下、前掲崎谷の分析に依拠して説明する。最初に日本列島に到達し、後期旧石器時代を担ったのは、シベリアの狩猟民であるC3系統である。バイカル湖周辺からアムール川流域およびサハリンを経由して、最終氷期の海面低下により地続きとなっていた北海道に達した。また一部は沿海州を南下し、朝鮮半島を経由して北部九州に達した。細石刃石器を用い、ナウマンゾウを狩っていたと考えられる。
その後、一万数千年前に、大陸からD2系統が入ってきた。これが縄文人である。D2は日本だけで見られる系統であり、アイヌ人88%、沖縄人56%、本土日本人42〜56%で、朝鮮半島では0%である。近縁のD1,D3がチベットで見られる。D系統は華北で東西に分かれ、東がD2、西がD1,D3になったと考えられる。
同じ頃、経路は不明であるがインドに起源を持つC1系統が南方から入ってきた。貝文土器を用い、縄文人とは異なる文化を南九州に築いた。
O1系統は台湾が起源であり、オーストロネシア語族との関連が想定されている。台湾と近いにも関わらず、日本列島ではO1はごく少数に過ぎない。
O2a/O2b系統は長江文明の担い手だと考えられている。O2b系統が移動を開始したのは 2800年前である。長江文明の衰退に伴い、O2aおよび一部のO2bは南下し、百越と呼ばれた。残りのO2bは北上し、山東省、朝鮮半島、日本列島に達した。長江文明の稲作を持ち込んだと考えられる。
O3系統は黄河中上流を起源とし、漢民族に典型的に見られる他、周辺の諸民族にも広く見られる。歴史的にO3は一貫して拡大しており、このためにD系統およびO2系統が駆逐されたと考えられる。
日本列島の特異な点は、D2やO2bなど、大陸では敗者となった集団が、絶滅せずに混じり合って存在していることである。その他にもC1,O1,O3など多様な遺伝子集団を吸収し、保持し続けている。
一方ミトコンドリアのハプログループに注目すると、日本には世界で日本人にしか見られないM7aというグループがある[19]。これは台湾付近で発生したと考えられ、沖縄・アイヌに多く本州で少ないという特徴的な分布をしている。
渡来系弥生人そっくりの江南人骨
http://www.asukanet.gr.jp/tataki/yayoizin2.html
b)中国で弥生タイプ人骨の出現〜変化はすでに春秋時代〜
今回日中共同調査で渡来系弥生人にそっくりの江南人骨の発見も驚ききであったが、実は江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代、紀元前5〜6世紀)から、すでに渡来系弥生人に似た人骨が出土していたことはさらなる驚きであった。
日中共同調査団による5年前(199?年)の調査で、中国の新石器時代人(4000年〜5000年前)は日本の縄文人、弥生人いずれにも似ていないことが明らかになっていたが、今回(199?年)の研究で、紀元前約500年の春秋時代末期に、弥生人タイプの「春秋時代人」がすでに出現していたことが明らかになったのは、予期せぬ大きな発見であった。
中国の新石器人の形質がなぜ変化したのか?この問題には、日中共同調査団の考古学者の中国側メンバーばかりでなく、この調査に協力いただいた日本の考古学者(菅谷文則<滋賀県立大学教授>東アジア考古学専攻)も注目している。
しかも、この春秋時代人骨は骨の形質が渡来系弥生人にそっくりであると同時に歯も渡来系弥生人のように大きく、抜歯風習も弥生時代の形式と一致している。梁王城遺跡の春秋時代の2体(いずれも男性)に見られた「上顎の側切歯を左右対称に抜く」という「抜歯の形式」は、弥生時代に流行していた抜歯の形式とまったく同じものであった。これは今回の重要な発見の一つであり、今後の重要な研究課題であると、中橋教授も注目している。
今後、この梁王城遺跡一帯は渡来系弥生人の起源を探る重要な鍵となるかも知れない。
楚
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%9A_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)
大介:中国の中原地方は、春秋戦国の後、秦の始皇帝が統一している。敗者である楚人の一部が新天地・避難場所として日本に渡来したんじゃないかな?
これは メッセージ 1 (may7idaho さん)への返信です.