Re: アジアの独立
投稿者: devil_snr 投稿日時: 2008/11/03 16:07 投稿番号: [43492 / 73791]
>>旧日本軍がインドネシア軍にいとも簡単に「敗退」し、武器を大量に「奪われた」こと等で潰えた<
一部には「戦闘」もあったが、自らが育てたインドネシア軍との戦闘に、日本軍は士気が上がらなかったらしい。
武器を「奪われた」も実態は・・・・↓
ーーー
■3.独立を戦いとれる実力を■
その予言は、1942年3月1日に現実のものとなった。今村均中将率いる第16軍は、総兵力5万5千をもって、ジャワ上陸を敢行した。攻略は上陸後3ヶ月を要するだろうと予想されていたが、わずか10日後には、オランダ軍司令官は全面降伏した。予言を信じた現地人が、オランダ軍が築いたバリケードなどの邪魔物を取り除くなど、積極的に日本軍の進撃を助けたからだ。
独立運動の指導者スカルノ、ハッタの情熱に感銘を受けた今村中将は、次のように言って、彼らを支援した。
「独立というものは、与えられるものではなく、つねに戦い取るべきものだ。かれらが戦い取ることのできる実力を養ってやるのが、われわれの仕事だ、、、」[4,p263]
それから、独立国への準備が始まった。300近い言語をインドネシア語に統一する、州の長官、副長官などに現地人を登用し、州や市の参議会を作って、行政や議会運営を習得させる、さらにインドネシア義勇軍を編成し、3万5千もの将校、兵士を育成した。これらの人々が後の独立戦争の主役となっていく。
■4.植民地復活を狙うイギリス、オランダ■
日本軍が降伏した1945年8月15日の二日後、スカルノとハッタはすかさず独立宣言を行う。18日には、インドネシア共和国憲法を採択し、それぞれ大統領、副大統領に就任した。しかしイギリスとオランダは、植民地の復活を狙い、「日本軍は連合軍が進駐し、交代を命ずるまで、現状を維持し、治安を確保すべし。そのために必要なる武器は保持してもよろしいから、暴動は必ず鎮圧すべし」と命令した。さらに「原住民の集会禁止、武器の携帯、民族旗の掲揚を取り締まるべし。これがためには、兵器の使用も可である。」との命令が来た。降伏した日本軍を使って、独立運動を阻止しようというのである。
一方で、インドネシア側は、来るべき独立戦争に備えるためにも、何としても日本軍が保有している武器が必要であった。今まで日本軍に協力してきた幹部達は、必死に日本軍に支援を訴えた。
独立運動で暴徒化したインドネシア群衆が、武器を要求して、日本軍の施設を襲う事件も起きた。日本軍は断じて「撃つな、指導者と話し合え」と厳命を下した。暴徒に銃殺された日本人のなかには,「インドネシアの独立に栄光あれ」と自らの血糊で壁に書き残した人もおり、現地人に多大の感銘を与えて、今も記念として残されているという。[4,p290]
■5.独立戦争への支援■
日本軍には、オランダ軍の目を盗んで、インドネシア側に協力する人々が現れた。中部ジャワ地区の馬淵逸雄少将は、廃兵器処理の許可を得るや、それを拡大解釈して、トラック何台分もの武器をチレボン河の河原に捨てた。対岸で待機していたインドネシア側がこれをごっそり手に入れた。
こうしてインドネシア側に、小銃3万5千挺、戦車、装甲車、自動車など200台、中小口径砲など多数と、ジャワの日本陸軍の装備の半分以上が手渡された。[4,p289]
自ら、軍籍を離脱して、インドネシア軍に身を投じた人々も多かった。その一人古閑正義中尉は、熊本県出身、明治大学で柔道とラグビーの名選手だった。スマトラのアチエ州で、地元の青年達を 「何が何でも独立を勝ち取れ」と教育していた。
昭和天皇の終戦の詔勅の中の「東亜解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ、遺憾ノ意ヲ表セザルヲ得ズ」という言葉から、インドネシア人を見捨てて、日本に帰る気持ちにはなれず、同じ部隊の少尉4名とともに、独立軍に参加した。戦闘に慣れないインドネシア人を率いて、常に先頭に立って、指揮をした。[2,p94]
オランダとの独立戦争は1949年12月までの4年5ヶ月も続いた。兵員こそ200万人もいたが、武器は日本軍から手渡された数万挺の小銃が中心である。オランダ軍は都市への無差別爆撃なども行い,80万人もの犠牲者、1千万人を超える負傷者が出たと言われる。
インドを始めとするアジア諸国がオランダを非難し、国連安保理事会や米国議会も撤兵勧告を行った。全世界の世論に押されてオランダは再植民地化を諦めたのである。[5]
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_1/jog036.html
一部には「戦闘」もあったが、自らが育てたインドネシア軍との戦闘に、日本軍は士気が上がらなかったらしい。
武器を「奪われた」も実態は・・・・↓
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■3.独立を戦いとれる実力を■
その予言は、1942年3月1日に現実のものとなった。今村均中将率いる第16軍は、総兵力5万5千をもって、ジャワ上陸を敢行した。攻略は上陸後3ヶ月を要するだろうと予想されていたが、わずか10日後には、オランダ軍司令官は全面降伏した。予言を信じた現地人が、オランダ軍が築いたバリケードなどの邪魔物を取り除くなど、積極的に日本軍の進撃を助けたからだ。
独立運動の指導者スカルノ、ハッタの情熱に感銘を受けた今村中将は、次のように言って、彼らを支援した。
「独立というものは、与えられるものではなく、つねに戦い取るべきものだ。かれらが戦い取ることのできる実力を養ってやるのが、われわれの仕事だ、、、」[4,p263]
それから、独立国への準備が始まった。300近い言語をインドネシア語に統一する、州の長官、副長官などに現地人を登用し、州や市の参議会を作って、行政や議会運営を習得させる、さらにインドネシア義勇軍を編成し、3万5千もの将校、兵士を育成した。これらの人々が後の独立戦争の主役となっていく。
■4.植民地復活を狙うイギリス、オランダ■
日本軍が降伏した1945年8月15日の二日後、スカルノとハッタはすかさず独立宣言を行う。18日には、インドネシア共和国憲法を採択し、それぞれ大統領、副大統領に就任した。しかしイギリスとオランダは、植民地の復活を狙い、「日本軍は連合軍が進駐し、交代を命ずるまで、現状を維持し、治安を確保すべし。そのために必要なる武器は保持してもよろしいから、暴動は必ず鎮圧すべし」と命令した。さらに「原住民の集会禁止、武器の携帯、民族旗の掲揚を取り締まるべし。これがためには、兵器の使用も可である。」との命令が来た。降伏した日本軍を使って、独立運動を阻止しようというのである。
一方で、インドネシア側は、来るべき独立戦争に備えるためにも、何としても日本軍が保有している武器が必要であった。今まで日本軍に協力してきた幹部達は、必死に日本軍に支援を訴えた。
独立運動で暴徒化したインドネシア群衆が、武器を要求して、日本軍の施設を襲う事件も起きた。日本軍は断じて「撃つな、指導者と話し合え」と厳命を下した。暴徒に銃殺された日本人のなかには,「インドネシアの独立に栄光あれ」と自らの血糊で壁に書き残した人もおり、現地人に多大の感銘を与えて、今も記念として残されているという。[4,p290]
■5.独立戦争への支援■
日本軍には、オランダ軍の目を盗んで、インドネシア側に協力する人々が現れた。中部ジャワ地区の馬淵逸雄少将は、廃兵器処理の許可を得るや、それを拡大解釈して、トラック何台分もの武器をチレボン河の河原に捨てた。対岸で待機していたインドネシア側がこれをごっそり手に入れた。
こうしてインドネシア側に、小銃3万5千挺、戦車、装甲車、自動車など200台、中小口径砲など多数と、ジャワの日本陸軍の装備の半分以上が手渡された。[4,p289]
自ら、軍籍を離脱して、インドネシア軍に身を投じた人々も多かった。その一人古閑正義中尉は、熊本県出身、明治大学で柔道とラグビーの名選手だった。スマトラのアチエ州で、地元の青年達を 「何が何でも独立を勝ち取れ」と教育していた。
昭和天皇の終戦の詔勅の中の「東亜解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ、遺憾ノ意ヲ表セザルヲ得ズ」という言葉から、インドネシア人を見捨てて、日本に帰る気持ちにはなれず、同じ部隊の少尉4名とともに、独立軍に参加した。戦闘に慣れないインドネシア人を率いて、常に先頭に立って、指揮をした。[2,p94]
オランダとの独立戦争は1949年12月までの4年5ヶ月も続いた。兵員こそ200万人もいたが、武器は日本軍から手渡された数万挺の小銃が中心である。オランダ軍は都市への無差別爆撃なども行い,80万人もの犠牲者、1千万人を超える負傷者が出たと言われる。
インドを始めとするアジア諸国がオランダを非難し、国連安保理事会や米国議会も撤兵勧告を行った。全世界の世論に押されてオランダは再植民地化を諦めたのである。[5]
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_1/jog036.html
これは メッセージ 43482 (beauetclair1 さん)への返信です.