Re: トカゲの臍さん。
投稿者: tokagenoheso 投稿日時: 2008/10/21 02:00 投稿番号: [42072 / 73791]
>こんにちは、
さわやかな秋となりましたね。
こんにちは。このところ秋日和が続き、仕事などで外へ出る時も楽しみです。
ところで宗教とは文化の基本要素と言っていいでしょう。各民族はおのおのの宗教を持っておりますが、今世界をリードしている西欧文化の背骨はなんと言ってもキリスト教でしょう。
キリスト教が誕生した頃から近代にいたるまで、人間、特に庶民の生活は非常に厳しく、その過酷な運命は神に与えらたものだと言ういわばあきらめの理由が必要だったわけで、結果として神、良き羊飼いであるキリスト、羊である人間、そして人間が神に許された結果征服すべき自然、と言う形が出来た訳です。人間は神の僕であり、神の許可を得て環境を思いのままに変えることが出来ます。
>犬も虫も、人間の為に生きているのではない。
そう思ったとき、キリスト教には入れませんでした。
どこか世界観がいびつだと、感じました。
桑の木さんが感じられた違和感はまさに異教徒も征服し従えるべき存在と考えるキリスト教の原点にあると考えられます。
中世からキリスト教宣教師が世界各地に送られ、植民地化のさきがけとなっていたのは紛れもない事実であり、結果として彼らの植民地は神の許可の元人間、すなわち白人に奉仕すべき物として扱われました。
キリスト教徒にも慈悲はありますが、それは人間のペットに対する慈しみと言った感じでしょう。彼らにとって自然は征服すべき対象であり、共存すべき対象ではなかったのと相通ずる物があります。
日本の場合、自然に恵まれ、外敵もなくきわめて穏やかな生活が続いていたため自然とは共存する物、自然とは畏敬の念を抱く物として考えられていたわけで、自然を開拓する場合もあくまで調和を考えます。当然ながらキリスト教と相容れる部分はなく、日本を植民地化したかった西欧から何度もキリスト教化の働きかけがありましたが結果として日本におけるキリスト教徒は1%未満です。
ご存じのように、日本の鎖国も幕府がキリスト教の本質を見抜き、シャットアウトするためでした。
故に、日本が西欧とは全く違う精神文化を発達させて来たのはきわめて当然だったと考えられます。
鳥居の印があれば不法投棄や立ち小便が無くなると思われていたのも、冒すべからざる聖域であることを人々が心に刻みつけているからでしょう。
日本の障子は防犯上は全く意味のない物ですが、しばらく前まで障子で家と外を区切っていたなどは当たり前にありました。明かり取りとして障子を使っていたのですから当然のことです。しかし、障子を閉めておけば誰もが入ってはならない領域と理解し、無断で立ち入ることを控えます。
誰もが自分の心に中にそのような規制をしっかりと刻みつけているわけで、それは子供の頃からの躾による物です。
宗教観が文化を形作り宗教観の違いが文化の違いを産み出してきたことは常識であり、一方的にキリスト教が日本人の宗教(むろん常に宗教として意識されているわけではありませんが)優れていると信じて疑わない人々の知性が如何に貧弱な物か、ここで改めて知りました。
キリスト教的価値観が絶対的な物であり、キリスト教徒が世界を征服するのは神の意志であると信じられていた中世まで、キリスト教の暴威は文字通り世界を破壊したと言っていいでしょう。
それに対する反省や疑問が東洋的価値観、とくに自然と調和する日本文化に目を向けさせいまキリスト的価値観に対する中和剤として受け入れられている事実も理解できないお人が居ます。
あそこまで盲信してしまえば、もう端から何を言ってもしょうがないでしょう。無意識に自分は白人の奴隷だと信じ込みながら生きてゆくのでしょうね。
かつての有色人種の多くがキリスト教に触れそのように擦り込まれ、西欧に対する抵抗を諦めてしまったなか、ほぼ日本だけがそれに立ち向かったのは決して偶然ではないはず。キリスト教に拮抗しうる精神的な裏付けがあったからです。
むろん、そのような理解が全く出来ない人にそれを説明してもしょうがないんでしょうけれど。
(神によって)罰せられなければ破壊をためらわない文化と、自ら内なる神(仏の)声に従って聖域を認める文化。どちらが穏やかで、人間尊重をする社会を作るか、それだけでもなぜか考えてみればよいことなのですが。
さわやかな秋となりましたね。
こんにちは。このところ秋日和が続き、仕事などで外へ出る時も楽しみです。
ところで宗教とは文化の基本要素と言っていいでしょう。各民族はおのおのの宗教を持っておりますが、今世界をリードしている西欧文化の背骨はなんと言ってもキリスト教でしょう。
キリスト教が誕生した頃から近代にいたるまで、人間、特に庶民の生活は非常に厳しく、その過酷な運命は神に与えらたものだと言ういわばあきらめの理由が必要だったわけで、結果として神、良き羊飼いであるキリスト、羊である人間、そして人間が神に許された結果征服すべき自然、と言う形が出来た訳です。人間は神の僕であり、神の許可を得て環境を思いのままに変えることが出来ます。
>犬も虫も、人間の為に生きているのではない。
そう思ったとき、キリスト教には入れませんでした。
どこか世界観がいびつだと、感じました。
桑の木さんが感じられた違和感はまさに異教徒も征服し従えるべき存在と考えるキリスト教の原点にあると考えられます。
中世からキリスト教宣教師が世界各地に送られ、植民地化のさきがけとなっていたのは紛れもない事実であり、結果として彼らの植民地は神の許可の元人間、すなわち白人に奉仕すべき物として扱われました。
キリスト教徒にも慈悲はありますが、それは人間のペットに対する慈しみと言った感じでしょう。彼らにとって自然は征服すべき対象であり、共存すべき対象ではなかったのと相通ずる物があります。
日本の場合、自然に恵まれ、外敵もなくきわめて穏やかな生活が続いていたため自然とは共存する物、自然とは畏敬の念を抱く物として考えられていたわけで、自然を開拓する場合もあくまで調和を考えます。当然ながらキリスト教と相容れる部分はなく、日本を植民地化したかった西欧から何度もキリスト教化の働きかけがありましたが結果として日本におけるキリスト教徒は1%未満です。
ご存じのように、日本の鎖国も幕府がキリスト教の本質を見抜き、シャットアウトするためでした。
故に、日本が西欧とは全く違う精神文化を発達させて来たのはきわめて当然だったと考えられます。
鳥居の印があれば不法投棄や立ち小便が無くなると思われていたのも、冒すべからざる聖域であることを人々が心に刻みつけているからでしょう。
日本の障子は防犯上は全く意味のない物ですが、しばらく前まで障子で家と外を区切っていたなどは当たり前にありました。明かり取りとして障子を使っていたのですから当然のことです。しかし、障子を閉めておけば誰もが入ってはならない領域と理解し、無断で立ち入ることを控えます。
誰もが自分の心に中にそのような規制をしっかりと刻みつけているわけで、それは子供の頃からの躾による物です。
宗教観が文化を形作り宗教観の違いが文化の違いを産み出してきたことは常識であり、一方的にキリスト教が日本人の宗教(むろん常に宗教として意識されているわけではありませんが)優れていると信じて疑わない人々の知性が如何に貧弱な物か、ここで改めて知りました。
キリスト教的価値観が絶対的な物であり、キリスト教徒が世界を征服するのは神の意志であると信じられていた中世まで、キリスト教の暴威は文字通り世界を破壊したと言っていいでしょう。
それに対する反省や疑問が東洋的価値観、とくに自然と調和する日本文化に目を向けさせいまキリスト的価値観に対する中和剤として受け入れられている事実も理解できないお人が居ます。
あそこまで盲信してしまえば、もう端から何を言ってもしょうがないでしょう。無意識に自分は白人の奴隷だと信じ込みながら生きてゆくのでしょうね。
かつての有色人種の多くがキリスト教に触れそのように擦り込まれ、西欧に対する抵抗を諦めてしまったなか、ほぼ日本だけがそれに立ち向かったのは決して偶然ではないはず。キリスト教に拮抗しうる精神的な裏付けがあったからです。
むろん、そのような理解が全く出来ない人にそれを説明してもしょうがないんでしょうけれど。
(神によって)罰せられなければ破壊をためらわない文化と、自ら内なる神(仏の)声に従って聖域を認める文化。どちらが穏やかで、人間尊重をする社会を作るか、それだけでもなぜか考えてみればよいことなのですが。
これは メッセージ 42034 (inakanokuwanoki さん)への返信です.